目的に応じた使い分けを
文化審議会の小委員会は3月11日、日本語のラテン文字転写、すなわちローマ字の方式について、ヘボン式を基本とする方向性を示した。
ローマ字の方式については、大きくヘボン式、日本式、及び訓令式が競合している。本稿では、それらの運用について筆者の見解を述べる。
各方式の表記法
ヘボン式

ヘボン式は、アメリカ人宣教師ジェームス・カーティス・ヘボンJames Curtis Hepburn(1815年―1911年)によって考案された表記法である。英語の綴字に倣って表音的に示すのが特徴で、鉄道施設や道路標識、日本国旅券など、外国人向けとして広く用いられている。
英語の発音に近づけるため、シ、チをそれぞれshi、chiと綴るなど、五十音の規則から外れる箇所が見られる。また、仮名では表記の分かれる[ジ][ズ]音の区別がない。
この他、撥音がb、p、mの直前に来る場合、すなわち両唇鼻音[m]となる場合にm、nいずれにするか(例えば「日本橋」Nihombashi/Nihonbashi)等、新旧方式間で微妙な差異がある。
日本式

日本式は、物理学者の田中舘愛橘(1856年―1952年)により1885年に提案された。
戦前に考案されたため、現代の口語では使われないヰやヱなどが含まれている。五十音の行と段とに忠実に従って綴るため、ヘボン式のように変則的な箇所がなく、同音による重複もない。
訓令式

訓令式は1954年に昭和29年内閣訓令第1号及び内閣告示第1号「ローマ字のつづり方」の第1表で示されたもので、現代かなづかい(昭和21年内閣告示第33号)に準拠して日本式を改変したものといえる。そのため、口語で音韻上の区別がつかない[ジ][ズ]を表す音はz-に統一された。
また、「国際的関係その他従来の慣例をにわかに改めがたい事情にある場合」に限って、ヘボン式と日本式の表記を一部認めるとした。それらは第2表にまとめられている。
用途別の使い分け
かつての日本がそうであったように、同じ言語でも口頭と書記とは必ずしも一致するものではなく、得てして乖離するものである。したがって、ローマ字の綴字においても、音声に重きを置く転写transcription目的であればヘボン式、文字に重きを置く翻字transliteration目的であれば日本式が望ましい。
例えば、日常で「三軒茶屋」を日本語の非母語話者に伝える際は、[サンゲンジャヤ]という発音だけ再現できれば事足りる。したがって、この場合はヘボン式でSangenjayaとすればよい。
だが、「三軒茶屋」の仮名書きを教える場合は、ジャとヂャとが識別されねばならない。そのことを明確にするためには、日本式のSangendyayaが相応しい。
また、日本語学習の場面でも、例えば用言の活用で「勝た、勝ち、勝つ、……」を「kat-a、kat-i、kat-u、……」というふうに日本式で示すと、理解を促進するであろう。
日本式は仮名と綴字との対応が一対という原則を貫いているため、ISO 3602では厳密翻字の方式として正式に採用されている。
綴字の諸問題に関する考察
この点、訓令式はどっちつかずである。si、tuからシ、ツの音を導くのは困難であるし、zya、zyu、zyoはジャ、ジュ、ジョなのかヂャ、ヂュ、ヂョなのかを判別できない。訓令式の問題はつまるところ、表音主義が不徹底に終わった現代仮名遣いの不合理性に帰着する。これは、訓令式が例外的にヘボン式や日本式を取り入れざるを得なかった点からもわかる。
ヘボン式においては、専ら英語音に依拠しているとの批判がある。例えば、チャを表すchaは、フランス語では[シャ]、ドイツ語では[ヒャ]の音となる。とはいえ、英語が国際的な共通語となっている今日において、英語音に基づいたヘボン式を採るのには一定の合理性があろう。
しかしながら、ここで別の問題が生ずる。それは、英語話者が母語特有の発音に引きずられて、期待した日本語の発音から乖離してしまうことである。例えば、「島根」Shimaneなら、shineやmane11. (馬などの)たてがみの意。の連想から[シャイメイン]と誤って発音されるかもしれない。但し、これはヘボン式に限ったことではなく、日本式や訓令式で「茅ヶ崎」をTigasakiと綴っても[タイガサキ]と読まれ得るのと同様である。
ラテン文字を使う欧米諸言語では、それぞれ独自の流儀で発音されているというのが実情である。それは、口語主体の土語が時代を下るにつれて変容する以上、避けられないことである。かといって、ラテン文字の本来の用途であるラテン語の古典的な発音を基にするのは現実的ではない。ほとんどの欧米人はラテン語でも自分の母語の読み方で勝手に発音しているし、Ave Maria22. [アウェ・マリア]と発音する。ラテン語でvはワ行の音。を正確に発音できる日本人も少数であろう。要するに、これは各話者の発音の癖、つまり別々に発展した言語間の差異に起因するものであって、綴字法そのものの欠陥とはいえない。そもそも、あらゆる話者に左右されない発音表記をローマ字に期待するのは無理がある。正確な音声表記なら、ローマ字ではなく音声記号を用いるのが妥当であろう。
1. (馬などの)たてがみの意。
2. [アウェ・マリア]と発音する。ラテン語でvはワ行の音。