日本における国体思想と軍国主義の温床
海を渡った思想の異形化
大陸から朝鮮半島を経て、日本列島へと流れ着いた儒教の思想体系は、この島国において、ある決定的な異形化を施されることとなった。
元来、シナ大陸で練り上げられた儒教の本質は、徹底した血縁絶対主義と、それを担保するための政治的流動性にあった。『論語』において孔子が「父ハ子ノ爲ニ隱シ、子ハ父ノ爲ニ隱ス。直キコト其ノ中ニ在リ」11. 『論語』「子路」。と断言したように、私的な血縁倫理の「孝」は、公的な国家秩序たる「忠」に対して明確に優先されるべき絶対の聖域であった。天命は一姓に固定されず、統治者が徳を失えば、別の姓を持つ有徳者がこれに代わって新たな王朝を開く。孟子が説いた「放伐」――暴君はもはや君主ではなく「一夫(独り者)」であり、これを誅殺することは弑逆には当たらないという易姓革命の論理は、最高権力に対する強い牽制として機能していた。
しかし、この大陸の劇薬をそのまま受け容れるには、日本の土壌はあまりにも異質であった。日本には、神話の時代から連綿と続くとされる「万世一系」の王権のフィクションがあり、支配階級は官僚ではなく武士であった。この地で儒教が生き残るためには、統治の都合に合わせて骨格を組み替えられる必要があった。
その結果誕生したのが、儒教が忌避したであろう異形の折衷思想「忠孝一本」である。それは親への愛着という人間の本源的な情念「孝」を巧みに簒奪し、国家の最高権力者への無条件の服従「忠」へと直結させる、精神の錬金術であった。この日本独自の変異こそが、のちに近代日本を狂気の軍国主義へと駆り立て、数多の「赤子」を戦場へと追いやった「国体思想」の温床となったのである。この回では、この日本型儒教の成立過程と、それがもたらした精神の隷属化の構造を検証する。
「万世一系」という呪縛
日本の思想史において、孟子の思想、就中易姓革命の論理は、常に不気味な禁忌として扱われてきた。江戸時代、長崎の出島を通じて輸入される漢籍のなかで、『孟子』を載せた船だけは、日本の神々の怒りに触れて必ず沈没する、という奇怪な俗説がまことしやかに囁かれていたほどである。この流言は、当時の支配層および知識人が、孟子の説く「王道」の裏面に潜む「革命の刃」をいかに恐れていたかを雄弁に物語っている。
日本の支配者たちにとって、王朝が交替するという事態はあるまじき狂気であった。なぜなら、日本の天皇の正統性は、天命の有無ではなく、アマテラスの血を引くという血統の連続性そのものに置かれていたからである。もし徳の有無によって王位が左右されるという大陸の原則を認めれば、徳なき主君は引きずり下ろしてよいというドミノ倒し的な論理が成立してしまう。
江戸初期の儒学者たちは、この矛盾に直面し、激しい知的格闘、あるいは自己欺瞞を強いられた。その象徴的なエピソードが、朱子学者の山崎闇斎が門弟たちに投げかけた、有名な「孔孟来襲」の問答である。
曰く「方今、彼ノ邦、孔子ヲ以テ大將ト爲シ、孟子ヲ副將ト爲シテ騎數萬ヲ率󠄁ヰ、來リテ我ガ邦ヲ攻メバ、則チ我ガ黨ノ孔孟ノ道ヲ學ブ者、之ヲ如何ト爲ス」ト。弟子、咸、答フル能ハズ。〔……〕曰ク「不幸ニシテ若シ此ノ厄ニ逢ハバ、則チ我ガ黨、身ニ堅ヲ被リ、手ニ鋭ヲ執リ、之ト一戰シテ孔孟ヲ擒ニシ、以テ國恩ニ報ゼン。此レ卽チ孔孟ノ道ナリ」ト。
(闇斎は尋ねた。「もし今、孔子を大将とし、孟子を副将として、数万の騎兵を率いて我が国を攻めてきたとする。その場合、我々孔子や孟子を学ぶ者はどうすべきか」。弟子は、誰も答えられなかった。〔……〕闇斎は言った。「もし不幸にしてこのような災難に遭ってしまったら、身に鎧をまとい、手に武器を取り、敵と一戦を交えて、孔子と孟子を捕虜にすることで、祖国の恩に報いよ。これこそが孔孟の道である」と。
──『先哲叢談』巻三
この逸脱の宣言は一見、学問の開祖に対する叛逆に見えるが、日本型儒教の核心を突いている。闇斎が率いた崎門学派は、朱子学の核心である「敬」(内面のつつしみ、倫理的緊張)を強調したが、それは内省的な道徳に留まらず、主君に対する絶対的な至誠へと収斂していった。彼らにとって、自国の王権を守るという具体的な行為こそが至高の正義であり、たとい聖人その人が否定しようとも、祖国の秩序は不可侵であるというナショナル・アイデンティティーがここに萌芽していた。
シナでは、殷周期の湯武革命は正義の具現とされる。しかし日本では、それは単なる「不忠」であり「弑逆」にすぎないと断ぜられた。孟子の牽制は弱められ、天命によるチェック機能を持たない絶対的で不変の王権という、硬直した政治空間を完成させたのである。
「孝」と「忠」との衝突
原始儒教において、人間のあらゆる道徳の根本は「孝」――すなわち、自分をこの世に生み出してくれた親への絶対的な報恩と愛着であった。これは生物学的な血縁関係に基づいているがゆえに、国家という人工的な擬制よりも上位に置かれる。
国家の法や正義を破ってでも、親子の情愛を守ることこそが人間としての真の道徳であると宣言した、前述の『論語』のエピソードを、江戸時代の日本の武士階級はそのまま受け容れるわけにはいかなかった。なぜなら、主君のために命を捨てることを名誉とする武士の倫理において、戦場で「老いた親が心配だから退却する」という行為は、儒教的には「最高の孝行」であっても、武士道においては「最悪の不忠」となるからである。
ここに、日本の思想家たちによるドラスティックな改変が加えられる。彼らは「忠」と「孝」の力関係を逆転させるか、あるいは両者を完全に一体化させる理論的アプローチを試みた。
その先鞭をつけたのが室町から江戸期にかけての神道家や儒者たちであり、のちに江戸後期の思想界を席捲する水戸学に至ってそのイデオロギーは頂点に達した。彼らは、人間が親から生を受けるのは事実だが、その親を存在せしめ、国土に安寧をもたらしているのは他ならぬ主君である、という壮大な理屈を編み出した。
「主君は、大いなる親である」「ゆえに、主君に忠を尽くすことは、すなわち親への究極の孝行に外ならない」──このドグマによって、本来の儒教が持っていた「国家への抵抗の足場」としての家庭や血縁は完全に武装解除された。家庭内の情愛という人間に具わった根源的なエネルギーが、「主君への盲従」という一本のパイプへと強引に接続し直されたのである。
水戸学と「忠孝一本」の完成
江戸後期、内憂外患の危機感のなかで、水戸藩を中心に形成された後期水戸学は、この思想的変異を「忠孝一本」という完成された政治ドグマへと昇華させた。
藤田東湖や会沢正志斎らの思想的テキスト、就中正志斎の『新論』(1825年)は、近代日本の精神を方向づけた著作である。彼らは、日本を一つの巨大な「一族」として描き出した。頂点に立つ天皇は「総本家」の家長であり、臣民はその「赤子」である。
ここにおいて、「忠」と「孝」はもはや並列される徳目ではなく、完全に同一の現象となった。儒教の伝統的な経典『孝経』では、父母から授かった身体を傷つけないことが孝の始めとされるが、「忠孝一本」の考え方では、主君のためにその身を進んで賭し、命を投げ出すことこそが最大の「孝」であり、「精華」であると教化される。
水戸学のもう一つの特異性は、儒教の世俗的合理主義を排斥し、それを原始的な神道の呪術的な天皇崇拝と融和させた点にある。シナの儒教は、天命の基準を民心という比較的客観的な指標に置いていた。民が飢え、苦しめば、天は怒り、王朝を交代させる。しかし水戸学は、天皇の神聖性を不可侵のものとするために、天命の審判を停止させた。「天皇の意志こそが天命である」という、自己言及的な絶対化がここに行われたのである。
この思想は、単なる一地方の学派の極論には終わらなかった。幕末の志士たち、例えば吉田松陰らは、この水戸学の熱狂的な国体論を吸収し、過激な尊王攘夷運動へと身を投じた。松陰が抱いた「一君万民」という思想は、徳川幕府の封建的階級秩序を破壊する革命性を持っていたが、同時に、それ以上に鞏固な「天皇への絶対忠誠」という新たな秩序を準備するものでもあった。
教育勅語と軍国主義への直回路
明治維新という政変を経て成立した近代日本国家は、西洋の科学技術や法制度を急速に導入しながらも、その国民の精神的基盤、すなわちナショナル・アイデンティティーの核には、江戸時代に培養された水戸学的な「国体」論をそのまま据え置いた。その結晶が、1890年(明治23年)に発布された教育勅語である。
教育勅語の文面は、表向きは極めて穏やかで普遍的な儒教的道徳の羅列に見える。「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ」といった文言は、近代的な市民道徳としても通用するかのように錯覚させる。しかし、この勅語の真意は、それらの日常的道徳のすべてが、後半の短い一節のための伏線として機能している点にある。
「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」
ここで、前半の「親孝行」や「夫婦円満」という日常の徳目はすべて、「いざという時に国家のために殉ずる臣民」を作るための、精神的な慣性の訓練であったことが暴露される。親を大切にする従順な子は、そのまま国家を思う従順な民へとスライドされる。「忠孝一本」のドグマが、近代国家の教育制度を通じて、全方位的に国民の脳内に刷り込まれたのである。
学校教育の現場において、教育勅語は単なるテキストではなく、天皇の御真影とともに奉安殿に格納される、生ける「神体」として崇められた。火災の際に御真影と勅語謄本を救出しようとして教員が殉職する22. 服部有希「教育勅語の成立から終戦後の国会決議に至る経緯」、国立国会図書館調査及び立法考査局『レファレンス』、800号、2017年9月、90頁。といった、悍ましいカルト的事件が頻発したのは、儒教的な「礼」が、非合理的な国家宗教と完全に癒合していた証拠である。
シナの儒教においては、もし統治者が判断を誤れば、臣下は諫言し、最悪の場合は易姓革命を試みる道徳的正当性を有していた。しかし、日本の「忠孝一本」の規範意識の中では、国家の決定に疑問を差し挟むことは、すなわち「親不孝」であり「非国民」であるとされた。国家批判は、政治的反対意見ではなく、共同体における「全き倫理的悪」として処理された。
1930年代から1940年代にかけて、日本が泥沼の総力戦へと突入していった際、軍部や知識人が叫んだ「八紘一宇」の狂熱は、この日本型儒教の極致であった。己の「私」を徹底的に滅ぼし、「公」に奉仕すること。特攻隊員たちが、肉親への恋々たる「孝」を胸に秘めながら、出撃に向かっていった悲劇の背景には、彼らの慕情を国家の弾丸へと変換させた「忠孝一本」という、思想の歪みが横たわっていた。
解体されぬ滅私の底流
1945年8月15日、大日本帝国は崩壊し、戦後の占領軍による改革によって国体思想は解体され、教育勅語も廃止された。日本人は民主主義と自由を手に入れたかに思われた。
しかし、江戸期以来数百年間を通じて培われたアーキタイプが、制度の変更だけで容易に消え去るはずもない。
現代の日本社会で、我々は「忠孝一本」の亡霊をあまりにも頻繁に目撃することになる。企業の不正を告発することよりも、組織への忠誠を優先し、隠蔽に走るサラリーマンたちの心理。仕事のために心身を犠牲にするのは美徳であるという、過労死を生み出す滅私奉公の精神。突出する個人を許さず、周囲への絶対的な同調を強いる「空気」。これらはすべて、かつて「孝」と「忠」との境界を曖昧にし、内面を完全に接収しようとした日本型儒教の残滓に外ならない。
孔子が二千五百年前に夢見た「己を修めて人を治める」の理想は、極東の島国において、個人を徹底的に圧殺し、組織の歯車へと仕立て上げるためのイデオロギーへと歪められた。このイデオロギーを克服しない限り、日本人は真の意味で自立した個人になることはできない。我々の血肉に溶け込んだこの静かな呪いとの闘いは、今もなお続いている。
1. 『論語』「子路」。
2. 服部有希「教育勅語の成立から終戦後の国会決議に至る経緯」、国立国会図書館調査及び立法考査局『レファレンス』、800号、2017年9月、90頁。