男系規範は「創られた伝統」
現在の日本において、帝位継承資格を「男系男子」に限定する現行の皇室典範の規定を巡り、多角的な議論が交わされている。この議論において、男系継承は「一貫して守られてきた我が国古来の伝統」として語られることが多い。しかし、歴史学や法制史の研究によれば、男系のみを絶対的な規範とする意識が確立したのは明治以降の近代期であり、それ以前の歴史においてはむしろ直系の維持や、皇位の正統性をめぐる流動的な認識が主流であった。11. 井上亮「日本社会が問われる皇位継承危機」、『日本経済新聞』、2020年1月1日。
古代、中世における皇位継承の実態と直系意識の優位
我が国の歴史上、推古天皇から称徳天皇に至る古代、あるいは江戸時代の明正天皇や後桜町天皇など、八方十代の女帝が存在したことは客観的な事実である。近代以降の男系絶対論において、これらの女帝は男系男子が成長するまでの中継ぎと説明されることが多い。しかし、古代の帝位継承を検証すると、そこには男系という抽象的な血統認識よりも、前天皇の血を直接引いているという直系意識が強く働いていたことが浮かび上がる。
例えば、天武・持統朝から聖武朝に至る帝位継承はその典型である。持統天皇は天武天皇の皇后であり、夫の崩御後に即位した。これは単なる中継ぎというよりも、天武天皇と自身との間に生まれた草壁皇子の血統、すなわち自らの直系へ皇位を確実に伝えるための政治的選択であった。さらに、草壁皇子が早世した後は、その子である文武天皇、さらには聖武天皇へと皇位が継承されていく。この過程において、天武・持統の直系血統を維持することが最優先され、他系への皇位の移動を防ぐことが最大の関心事であった。
また、元明天皇から元正天皇への歴史上唯一の母娘間の継承の事例も重要である。当時において「男系男子」のみが絶対的な規範であったならば、他の男系男子の皇族を擁立する方が自然であったはずである。しかし、実際には聖武天皇への直系継承という目的のために、母娘間の継承が選択された。この事実は、当時の宮廷社会において、血統の正統性が父方か母方かという性別による選別よりも、天皇の直系近親者であるか否かという距離感によって測られていたことを示している。
中世における持明院統と大覚寺統の両統迭立期においても、争点となったのは普遍的な男系ラインではなく、自らの家系の直系にいかに帝位を留めるか、という現実的な政治権力の世襲問題であった。帝位は各「家」の資産であり、その正当性を担保するものは、他ならぬ直系の血の繫がりであった。ここでの関心事は、血統の抽象的な形式よりも、実質的な直系世襲の継続であったと言える。
近世における皇統の維持と女帝の役割
江戸時代における皇位継承を見ても、直系意識の強さは維持されていた。江戸時代には明正天皇と後桜町天皇の二人の女帝が即位しているが、それぞれの背景には、直系血統を維持するための切実な要請が存在した。
明正天皇は、後水尾天皇の譲位を受けて即位した。当時、後水尾天皇と徳川和子との間に生まれた男子が早世し、皇位の直系維持が危ぶまれる状況にあった。そこで、幕府との血縁関係も考慮しつつ、直系の女子である明正天皇が立てられた。遠方の男系男子から養子を迎えるよりも、現天皇の直系子女を即位させることで、皇統の正当性を担保しようとする意識が勝っていたと言える。
幕末に近い時期に即位した後桜町天皇の事例も同様である。桃園天皇が22歳で崩御した際、遺された英仁親王(後の後桃園天皇)はわずか5歳であった。このとき、幼帝の即位による政治的不安定を避けるため、桃園天皇の姉である後桜町天皇が即位した。ここでの即位の主たる動機は、英仁親王が成長するまでの「直系血統の保護」であった。
これらの歴史的実態から言えることは、明治以前の日本においては、皇位継承は状況に応じて柔軟に運用されるものであり、直系の血筋をいかに絶やさないかという実利的な要請が、男系男子という硬直的なルールに優先していたということである。血統はむしろ「家」や「統」という、男女双方の要素を含み得る枠組みの中で捉えられていた。
明治維新と近代国家形成における「男系男子」の法制化
では、なぜ近代において「男系男子」が絶対的なルールとして固定化されたのか。その転換点は、明治維新以降の近代国家形成期にある。
明治新政府は、欧米列強に対抗し得る中央集権的な近代国家を急速に構築する必要に迫られていた。その際、国家の統合の象徴として、天皇という存在が再定義されることとなった。1889年(明治22年)に制定された大日本帝国憲法および旧皇室典範は、それまで慣習法やその時々の政治的判断に委ねられていた皇位継承ルールを、初めて成文化した。
旧皇室典範第一条において「男系ノ男子之ヲ繼承ス」と明記された背景には、主に二つの要因が存在する。
第一に、近代ヨーロッパの君主制、特にプロイセンの制度からの強い影響である。英国を除く当時のヨーロッパの主要な大陸の君主国では、フランク王国のサリカ法典Lex Salicaに由来する、女子の王位継承権排除が一般的であった。近代的な軍隊の最高指揮官、すなわち統帥権の保持者としての君主像を確立するためには、軍事権を行使し得る男子であることが必須であると考えられたのである。皇位継承から女子を排除することは、当時の国際標準に適合するための選択でもあった。
第二に、明治期に整備された「家制度」との連動である。近代日本が目指した社会秩序は、戸主という家長が絶対的な権限を持ち、家族を統率する家父長制的な構造であった。天皇はその最高権威たる戸主として位置づけられた。したがって、国家の根本たる帝位継承においても、民間社会の家制度の模範となるべく、徹底した男系主義が導入される必要があった。
このように、男系男子への限定は、近代的な家父長制のイデオロギーと、ヨーロッパ型の軍事君主制を融合させた、極めて近代的な制度設計の結果であった。
ナショナリズムによる「伝統の創出」と言説の固定化
明治政府は、この新設された近代的な皇位継承ルールを国民に受容させるため、それを「古来不変の伝統」として語り直す言説空間を創出した。これが所謂「創られた伝統invented tradition」と呼ばれる現象である。
国家神道や教育勅語を通じて、天皇は「万世一系」の血統を持つ神聖不可侵の存在として位置づけられた。この「万世一系」というスローガンの中に、「男系による無謬の連続性」という意味合いが強く込められるようになる。記紀神話における日向三代から神武天皇に至る系譜が歴史的事実として教え込まれ、歴史上の女帝たちの存在は「例外」あるいは「一時的な中継ぎ」として過小評価されていった。
近代ナショナリズムは、国民の一体感を高めるために、長大で純粋な歴史的連続性を必要とする。男系絶対主義は、「我が国は他国に類を見ない純粋な血統を維持してきた」という「国体論」の根幹を支える論理として、ナショナリズムと深く結びついた。結果として、古代から近世まで存在していた、直系意識に基づく柔軟な継承の知恵や、状況に応じた現実的な判断の歴史は覆い隠され、「男系以外は伝統にあらず」という硬直化したイデオロギーが定着することとなった。
以上の考察から明らかなように、帝位継承における「男系男子」の規範は、古来から連綿と続く不変の伝統ではなく、明治期という近代国家形成の局面において、ナショナリズムや国家統合の必要性から再構成された近代の産物である。歴史的実態においては、むしろその時々の皇統の危機を救い、正統性を維持するために、直系の重みが意識され、女帝の即位を含めた多様な選択肢が模索されてきた。
現代における帝位継承問題を議論するにあたっては、近代ナショナリズムによって創出された「男系絶対」という言説を不変の前提とするのではなく、それ以前の歴史が持っていた柔軟性や直系意識の実態に目を向けることが肝要である。歴史を客観的に見つめ直すことは、伝統の否定ではなく、むしろ我が国の皇室が歴史の荒波の中でいかにして柔軟に存続してきたかという、真の歴史的知恵を現代に活かすことに繫がるのである。
1. 井上亮「日本社会が問われる皇位継承危機」、『日本経済新聞』、2020年1月1日。