空間の対称性と相対性との相克
「左」と「右」。我々は幼少期から、箸を持つ手や靴を履く足、あるいは交通ルールを通じて、この二つの概念を身体感覚として叩き込まれてきた。日常生活において「右に曲がれ」という指示に困惑することは稀であり、左右は上下や前後と同様、この世界を構成する最も基本的で自明な座標軸であるかのように思われる。
しかし、不思議なことに、いざ「右とは何か」を、いかなる具体的対象からの譬えも用いずに客観的な定義として記述しようと試みると、我々は突如として深い迷宮に迷い込むことになる。心臓の位置、時計の回転、方位磁針の指す向き──こうした具体的な外部参照を剝ぎ取ったとき、左右という概念は、その実体を維持することが著しく困難になる。
空間の鏡像対称性
左右の定義を困難にする第一の要因は、三次元空間における鏡像対称性(パリティー対称性parity symmetry)である。
上下の方向は重力という絶対的な物理的勾配によって規定できる。前後の方向は、多くの生命体にとって進行方向や感覚器官の集中する面として機能的に定義される。しかし、上下と前後という2本の軸が確定した後でも、左右の軸は依然として反転の余地を残している。右手系の座標系と左手系の座標系は、鏡に映したときに互いに重なり合わない対掌性chiralityを持つが、それら自体が持つ幾何学的な構造は全く同一である。
このため、空間の幾何学的な性質だけを用いて右を定義しようとすると、必ず「右手系において……」という循環定義に陥るか、あるいは「時計回り」という別の相対的な回転方向に依存せざるを得なくなる。宇宙のどこかに、我々の知る「右」が「左」に入れ替わった鏡の中のような銀河が存在したとしても、そこでの幾何学的法則は我々の世界と何ら変わりなく成立してしまうのである。
相対概念の言語的限界
第二の要因は、左右という言葉が本質的に、内部に基準を持たない相対概念であるという点にある。
例えば「円」や「正方形」という概念は、外部の基準を一切借りずとも、中心からの距離、辺の長さと角度といった、その内部の性質のみで完全に定義できる。これに対し、左右は常に観測者という主体の存在を前提とする。
辞書的な定義を試みれば、その多くは「北を向いた時の東の方向」や「心臓のある側の反対の方向」といった具合に、地理的条件や解剖学的特徴を譬えとして用いる。これらを排除して純粋に言語化しようとすれば、「左の反対が右である」というトートロジー(同義反語)に行き着くしかない。これは、左右が互いの差異によってのみ定義される「対概念」であり、単独では存在し得ない抽象的な符号であることを示唆している。つまり、左右とは実体ではなく、空間内の関係性に付与された「ラベル」に過ぎないのである。
オズマ問題と物理学的ブレイクスルー
この問題の深淵を象徴するのが、物理学者マルティン・ガードナーMartin Gardnerが紹介した「オズマ問題The Ozma Problem」である。「もし、地球外生命体と無線通信だけでコンタクトを取ったとして、彼らにこちらの言う『右』がどちらであるかを正確に伝えることは可能か」という問いだ。
物質的なサンプルを送ることができず、かつ共通の天体も観測できない状況下では、いかなる数学的、論理的な説明を積み重ねても、左右の区別を伝えることはできない。彼らの文化において「時計回り」が我々と逆である可能性や、心臓が右側にある可能性を排除できないからである。
この絶望的な状況に一筋の光を投げかけたのが、1956年の呉健雄による「ウーの実験Wu experiment」であった。それまで宇宙の物理法則は左右対称(パリティー不変)であると信じられていたが、素粒子の「弱い相互作用」においては、その対称性が破れていることが判明したのである。特定の原子核が崩壊する際、放出される電子の方向に偏りが生じるというこの現象は、宇宙のいかなる場所においても共通の物理的基準となり得る。

しかし、この発見によって得られたのは「電子が多く飛ぶ方を左と呼ぶことにしよう」という、宇宙規模の「約束事」に過ぎない。結局のところ、高度な物理学を持ち出したとしても、左右の定義は何らかの特定の現象を基準に据える、究極の「譬え話」に帰着せざるを得ないのである。
人間性の尺度としての左右
以上の考察から明らかなように、左右の定義が困難である理由は、我々の住む宇宙が、根本的なレベルにおいて「右と左を平等に扱っている」からに他ならない。左右を峻別し、そこに価値や意味を見出すのは、多分に観測者である人間、あるいは生命の側の都合である。
我々は、心臓が左にあり、右手でペンを握り、重力に従って大地に立つという、極めて「偏った」身体性を持っているからこそ、左右を自明のものとして認識できる。左右を譬えなしに定義できないという事実は、我々の認識がいかに具体的、身体的な経験に依存しているかを浮き彫りにする。
左右の定義の難しさとは、論理や数式だけでは捉えきれない、宇宙の対称性と生命の非対称性の間に横たわる、深遠な溝そのものなのである。