主体思想に潜む過激な儒教
偽装された社会主義と剝き出しの伝統儒教
平壌の万寿台の丘に、天を突くかのように聳え立つ二体の巨大な銅像がある。金日成と金正日。その足元に集う人民は、一糸乱れぬ敬礼を捧げ、その胸元には彼らの肖像が描かれた赤いバッジが、聖痕のように輝いている。この異様な光景を目にするとき、我々の理性は一つの激しい混乱、あるいは巨大な錯覚に直面せざるを得ない。
この国家の憲法は、自らを社会主義国家と規定している。形式的には、神を否定するマルクス―レーニン主義の、あるいは唯物論的革命思想の正統な後継者を名乗っている。しかし、階級闘争のドグマの果てに、私有財産の否定と全プロレタリアートの解放を謳うはずの場所で展開されているのは、徹底的な個人崇拝と、前代未聞の三代世襲という現実である。
この巨大な矛盾、社会主義という隠れ蓑の隙間から覗く異形な権力構造を解き明かす鍵は、西洋の共産主義理論の中には存在しない。それは、朝鮮半島の土壌において数百年にわたり純化され、世界で最も教条的な進化を遂げた思想体系――李氏朝鮮の朱子学という、儒教の最も過激な系譜の中にこそ求められねばならない。
北朝鮮の公式イデオロギーである主体思想の本質とは、マルクス主義の用語で精緻にカモフラージュされた、実質的な「極大化された儒教的宗教」に外ならない。本回では、最高の人格者が最高権力者となるべきとする儒教の「聖王」思想が、いかにして「首領論」へと変貌し、人民の魂を完全に接収する精神の檻となったのか、その思想史的病理を明らかにする。
朝鮮半島における朱子学の狂気――「正統」への異常な執着
北朝鮮における思想の暴走を理解するためには、まず1392年から五百年以上にわたって朝鮮半島を支配した李氏朝鮮まで時計の針を戻さねばならない。
当時の朝鮮は、前王朝である高麗の国教であった仏教を「淫祀」として徹底的に弾圧し、朱子学を一元的な国家教学として採用した。シナから輸入された朱子学は、この半島において、オリジナルを遥かに凌ぐ純粋性と硬直性を獲得することとなる。そこでの朱子学は、単なる実践的な統治の道具や倫理道徳の範疇を超え、宇宙の真理そのものであり、これに反するものは人間ではない、とまで断ずる絶対的なイデオロギーへと変質した。
その結果もたらされたのが、飽くなき思想的純血主義と、身内同士で血で血を洗う、凄惨な正統論争であった。支配階級である知識人の両班たちは、学説のわずかな解釈の違いや、王室の服喪期間という、近現代の視点からは極めて些末に思える儀礼の形式をめぐり、互いの政治生命を賭けて激突した。所謂「礼訟」に代表される党争は、このような経緯から惹き起こされた。彼らにとって、「礼」の形式に狂いが生じることは、宇宙の絶対正義である「理」を汚すことであり、統治の正統性を根柢から喪失することを意味したからである。
唯一の正統なる思想体系以外はすべて斯文乱賊であり、一分の妥協も許さず徹底的に根絶せねばならないという過激な二元論の精神構造は、20世紀後半、38度線の北側に誕生した金日成政権へと、驚くほどシームレスに継承された。
北朝鮮が掲げる「唯一思想体系」の確立というスローガンは、李氏朝鮮の両班たちが追求した朱子学的純血主義の、現代における直接的な変異体である。首領の提示する思想や教示は、宇宙の絶対正義である「理」に位置づけられ、それに対するかすかな疑問や解釈の変更は、「宗派分子」「修正主義」として、一族もろとも社会的に、あるいは物理的に抹殺される。李氏朝鮮を精神的に硬直化させ、最終的に国を滅亡へと導いた朱子学の狂気は、近代的な全体主義のテーゼと融合することで、国家規模の精神的抑圧へと結晶化した。
共産主義の亜流から唯物論の否定へ
北朝鮮での「主体」への言及は、1955年の金日成による演説が初出である。当初は、「思想における主体」「政治における自主」「経済における自立」「国防における自衛」を掲げ、国際共産主義運動の多極化の中で、マルクス―レーニン主義の一般的真理を自国の国情に合わせて自主的に適用する立場と説明されていた。
ところが1970年代に入ると、「人間は万物の主人であり、すべてを決定する」「勤労人民大衆の自主性の実現をめざす」と、人間の能動性が強調されるようになった。ここに来て、世界の本質は物質であるという従来の唯物論は否定された。
「孝」の最高形態としての首領崇拝
その後1980年代において、人間中心の思想体系は「社会政治的生命体論」という有機体国家論として発展を遂げることとなる。
金正日主導で精緻化されたこの「社会政治的生命体論」によれば、人間に備わっている「生命」は一つではない。人間には、二つの生命が宿っているとされる。一つは、血縁上の親から授かる「肉体的生命」で、これは有限であり、肉体の死とともにいずれ消滅する。いま一つは、首領から授かる「社会政治的生命」で、首領の指導に従い、党という組織の一員として革命に奉仕することで獲得される、永遠の精神的生命である。
人間にとって真に価値があるのは、滅びゆく肉体的生命ではなく、永遠に生き続ける「社会政治的生命」である。そして、父としての首領、母としての党、子としての人民は、この「社会政治的生命」を共有する「一つの有機的な生命体」を構成している──こうして、生命体の名を借りた支配のドグマが完成した。
ここに、儒教で人間の本源的な情念とされる「孝」の精神が、人心を操縦する手段として機能している特徴を看取することができる。
伝統的な儒教においては、既に述べたとおり、国家の公的な命令(忠)よりも、肉親への私的な情愛(孝)が優先される「聖域」が存在していた。しかし北朝鮮の社会政治的生命体論は、この優先順位を完璧に逆転させ、かつ一体化させた。「実の親は、お前に一時的な肉体をくれたにすぎない。しかし、首領はお前に『永遠の生命』をくれた大いなる恩人、すなわち『真の父』である。ゆえに、実の親への孝行よりも、首領への忠孝こそが、人間としての最高至上の道徳である」。
このイデオロギーにより、家庭という国家に対抗し得る最後の砦は崩壊した。実の親の葬儀を欠席してでも、首領の哀悼行事に駆けつけることが「真の孝行」とされ、火事の際には、実の子の命よりも、壁に掛けられた首領の肖像画を命がけで救出することが、道徳的な英雄として国中で称賛される。血縁に基礎を置く道徳的秩序が、すべて首領という偶像への盲従へと直結するよう、精神の配管が完全に組み替えられてしまったのである。
「白頭の血統」という血縁教条
原始儒教において、絶対的な独裁者を牽制するための安全弁として機能していたのが、孟子の説いた易姓革命の論理であった。王が徳を失い、民衆を虐げる暴君と化したならば、天はその君主から「天命」を剝奪する。その時、臣民は暴君を放伐し、別の姓を持つ有徳者を新たな王として戴く権利、すなわち革命の正当性を持っていた。
しかし、近代日本が天皇の万世一系を不可侵とするためにこの革命思想を禁忌としたように、北朝鮮もまた、自らの体制から易姓革命の可能性を徹底的に排除した。その最高表現が、最高権力の正統性を金日成直系の血脈に限定する「白頭の血統」という血縁教条である。
本来、社会主義や共産主義の理論において、富や権力の世襲ほど激しく弾劾されるべき悪徳はない。それはマルクスが打破しようとした封建制への露骨な退行であり、自己否定に外ならないからである。ソ連や中国においてさえ、指導者の地位がその実子へと直接世襲されることはなかった。にも拘わらず、北朝鮮において三代にわたる世襲が、何の政変も伴わずに平然と、いやむしろ最大の慶事として定着したのはなぜか。それは、民衆の精神に、儒教が誇るもう一つの鞏固なドグマ、「宗法の論理」が横たわっているからである。
朱子学における宗法とは、縦の血統の連続性を絶対視し、本家の長子相続を神聖化する血縁主義の極致である。北朝鮮は、この伝統的な血統至上主義をそのまま権力構造の心臓部に移植した。
金日成という革命のイデオローグは、その直系の血脈である金正日、金正恩へと、神秘主義的に「血」を通じて継承される。したがって、民衆の側から「現統治者に徳があるか否か」を判断する審判の余地は最初から存在しない。特定の血を引いていること自体が、最高徳性の自動的な証明となるからである。主体思想は、マルクス主義の階級論という残骸を肥料にしながら、儒教の持つ最も閉鎖的で、最も排他的な血縁絶対主義を抽出し、それを現代国家の頂点に据えることに成功したのである。
消え去らぬ「精神の配給制」
1990年代半ば、北朝鮮は「苦難の行軍」と呼ばれる、未曾有の大飢餓の時代を迎えた。ソ連の崩壊に伴う経済援助の停止と、水害などの自然災害が重なり、国内の経済システムは完全に破綻した。街には餓死者があふれ、国家による食料や生活物資の配給制は完全に消滅した。
通常の国家であれば、これほど凄惨な統治の失敗、民衆を飢え死にさせるという失政は、間違いなく暴動や軍事クーデター、あるいは体制の瓦解に直結したはずである。しかし、金政権の盤石な体制は微動だにしなかった。国際社会が首を傾げたこの驚異的な耐久力の正体こそが、まさに彼らが数十年かけて構築した「日本型を超える儒教の檻」の成果であった。
物質の配給が杜絶しても、人民の脳内に刷り込まれた「精神の配給制」――すなわち、首領への絶対的な忠孝、唯一思想体系というイデオロギーのコードは、完璧に作動し続けていた。民衆は、自分が飢え、我が子が死に瀕している間際にあっても、その原因を首領の不徳や体制の欠陥に向けることはなかった。むしろ彼らは、それはアメリカ帝国主義という邪悪な外敵の陰謀であり、あるいは自らの首領への忠誠心、克己の精神が足りないせいだと、自らの内面を責めるように調教されていたからである。
現代の北朝鮮という国家は、冷戦が生み出した単なる歴史の迷子でも、凶暴なだけの軍事独裁国家でもない。それは、二千五百年前に孔子が種を撒き、朝鮮半島の閉塞した政治空間で純化された儒教の負の側面が、二十世紀の全体主義的な装置と結びついた、思想的ディストピアの現身なのである。
我々はこの隣国の狂気を、冷笑や哀れみだけで片づけるべきではない。個人を徹底的に圧殺し、組織や指導者を無謬の存在として絶対化し、異なる意見を邪悪として排除する病理は、形を変え、言葉を変えて、日本を含む東アジア全体の精神的底流に今なお息づいているからである。北朝鮮という鏡に映し出されているのは、その病理の暴走を止める批判の足場を失った人間が、いかなる精神的奴隷状態にまで堕ちていくかという、普遍的な恐怖の未来図に外ならない。