『絶歌』の出版を糾弾する者たちに告ぐ
秦朝での焚書坑儒、ナチス・ドイツや戦前の日本での検閲、共産国家や北朝鮮での思想統制など、思想・言論への弾圧は有史以来幾度となく繰り返されてきた。だが、あらゆる独裁国家や全体主義国家でもなく、あるいはまた今なお遺蹟を破壊し続けている「イスラム国」などのようなテロリストでもなく、およそ現代の「普通の」民衆以上に鉄面皮なやり口でこれをやった者はいない。かの連中こそ自然の粗製濫造品、文明の破壊者にして人類最大の敵なのだ。神戸の児童殺人犯による手記『絶歌』の出版をしているあの人間の屑どもは、以下の四重の罪悪を犯しているという点で、容赦なき非難を覚悟せねばならぬ。
第一は、徹頭徹尾それが利己的な動機に基づくものであり、しかもできるだけ労力を要しない方法でそれを達成しようという怠惰さに基づくものであること。極めて熱心に「正しさ」を説き、執拗に他人に「正しさ」を押しつける連中の動機の根柢にあるのは支配慾である。そしてなぜ彼らの中に支配慾が蠢いているのかといえば、それは彼ら自身が何らの能力も業績も有せず、またそれを獲得しようという意欲もないからだ。そういう内面の空虚な彼らにとって、所謂「悪人」を責め立てるというのは予め多数の合意があるから、最も手っ取り早く自己満足や賞讃を得られる方法なのである。決まって凡庸な輩が手垢に塗れた「正義」を振り翳すのはそのためである。これは、彼らが自己を高める努力を嫌うくせに、ひたすら謙虚さを要求して非凡な者を引き下ろしてばかりいる様と実によく似通っている。加えて、先頭に立って責め立てるのではなく、誰かが批判し始める頃合いに便乗するという点も、彼らのその卑劣さ・怠惰さを裏書きするものである。
第二は、利己的でありながら、どこまでも被害者のことを思い遣っている素振りで他者を欺いていること。そして他者のみならず自分自身をも同様に欺いていることも往々にしてある。これは単なる偽善ではない。普通の偽善者は、本音をひた隠し建前を前面に押し出す自らの行為を明確に意識しており、両者が互いに相容れないことも自覚している。ところが件の連中は、表に出している「思い遣り」「善性」と矛盾する上の利己心を己のうちに見つけるや否や、直ちにそれを意識の中から掻き消して葬り去り、自分は心から被害者に共感しているのだ、という暗示を自らにかけ、それからは自分の「本心」に対して一瞬たりとも疑念を感ずることはない。彼らの合言葉は「欺瞞こそ誠実」──噓をついていながら一欠片の罪悪感もない彼らの厚かましさは、実にここに由来するのである。彼らの精神状態こそ、ジョージ・オーウェルが「統制された狂気」11. ジョージ・オーウェル(高橋和久訳)『一九八四年』(ハヤカワEpi文庫)、早川書房、2009年、332頁。と形容したものに外ならない。
二重思考とは、ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる能力をいう。党の知識人メンバーは、自分の記憶をどちらの方向に改変しなければならないかを知っている。従って、自分が現実を誤魔化していることもわかっている。しかし二重思考の行使によって、彼はまた、現実は侵されていないと自らを納得させるのである。この過程は意識されていなければならない。さもないと、十分な正確さでもって実行されないだろう。しかしまた同時に、それは意識されないようにしなければならない。でなければ、虚偽を行なったという感情が起こり、それゆえ罪の意識がもたらされるだろう。二重思考はイングソックのまさしく核心である。なぜなら、党にとって最も重要な行動とは、意識的な欺瞞を働きながら、完全な誠実さを伴う目的意識の強固さを保持することであるからだ。故意に噓を吐きながら、しかしその噓を心から信じていること、都合が悪くなった事実は全て忘れること、その後で、それが再び必要となった場合には、必要な間だけ、忘却の中から呼び戻すこと、客観的現実の存在を否定すること、そしてその間ずっと、自分の否定した現実を考慮に入れておくこと──これらは全て、なくてはならない必要条件である。22. ジョージ・オーウェル(高橋和久訳)『一九八四年』(ハヤカワEpi文庫)、早川書房、2009年、328―329頁。
(太字原著、圏点筆者)
更に鬱陶しいことに、第三の罪悪は、その「誠実な欺瞞」行為を他者にも強要していること。何に共感すべきか、あるいは何を非難すべきかの判断基準を、連中は何の吟味もなしに勝手に採用している。そしてその基準を支えているのは、鯨飲し、馬食し、徒党を組み、愛慾にも事欠かず、何ら苦労もせずに天寿を全うしてころりと死にたいという、馬鹿げた理想郷への憧憬なのである。そしてこれは、この世に充満するあらゆる苦難、すなわちアダムの受けた呪いという儼然たる現実から目を背け、自らの理不尽な運命に立ち向かうことを拒み、ただただ弱くあり続けようという彼らの確乎たる決意でもある。なぜなら、デモクラシーが大勢の現代では、弱い存在且つその味方でありさえすれば、いつでも被害者面をすることができ、あらゆる義務から逃れ、あらゆる権利を主張することができるからだ。罪のない者が殺されることもあるだとか、罪人がのうのうと生きていることもあるだとかいう考えは、彼らにその怠慢の抛棄と苛酷な運命の受け容れとを迫るものだから、目も眩むばかりの激しい恐怖と憎悪とを彼らの心に生ぜしめるのである。自分たちが玩具のようにこよなく大事にしている佚楽への脅威と見るや、彼らはこれらを悉く滅ぼし、根絶やしにしなければ気が済まない。だから彼らは万人に対して、反証を唱えることは疎か、頭に思い浮かべることさえも禁ずるのである。「正しさ」を強調する連中があれほどにも傲慢なのはこのためである。
第四は──そしてこれが最も非難さるべき点であるが──大多数の合意する「正しさ」に逃げ込みさえすれば自身が批判されることがなく、たとえ批判されても「正しさ」を認めない相手の態度を詰りさえすれば十分であり、結果として自分は一切傷つかないまま、有無を言わさず相手を屈服させて黙らせることができる、という狡猾な確信を抱いていること。「馬鹿の一つ覚え」の慣用句のとおり、彼らは他人から伝え聞いた言葉を鸚鵡のように摸倣することしか能がなく、その意味をほんの数分ですら考えられないほど頭が悪いから、相手から反駁されることを常に恐れる。そこで、窮鼠が猫を噛むように、「正しさ」それ自体に異論の余地がないことを殊更に強調し、それに賛意を示さない相手を一方的に攻撃するという「直接行動」33. オルテガ・イ・ガセット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1995年、105頁。に打って出るのである。しかしこれは明らかな破廉恥行為だ。なぜなら、これは自ら出任せを吐いておきながらその周囲に与える影響については全く考慮に入れないという不誠実さの顕れだからであり、またごろつきどもが皆こうしたやり口で自らの発言に責任を負わなくなるともなれば、その風紀紊乱的な効果は計り知れないからだ。かような恥ずべき「安全地帯」からの攻撃は出版界での匿名による批判と揆を一にしている。匿名の文筆家も、自らの言説を自分のものと認めるだけの自信がなく、人目を憚りながら無事に忿懣を撒き散らして、密かに溜飲を下げるだけの場合がほとんどだからだ。こうしてインターネットが普及した今では、保身に走る輩からの塵芥のような中傷や誹謗が圧倒的にのさばっている始末である。だが、嘲罵を受けた者が反論の機会を奪われる事態に、果たして我々は我慢できるだろうか。
愚鈍、怠惰、卑劣、欺瞞、傲慢、無責任という以上の性質により、偽物の倫理を振り翳すこの無頼の徒には反省という観念など存在しないから、連中の悪事には更に拍車がかかることとなろう。既にその徴候は現れている。すなわち、件の書物の読者、販売する書店、所蔵を決めた図書館への罵詈讒謗がそれである。かの無資格判事どもは著者本人や出版社を槍玉に挙げるだけでは飽き足らず、糾弾の対象となる者をあらゆる口実を付けては無理矢理にでも引き摺り出してくるのだ。こうなればもう誰も自由な発言をすることはできなくなり、同じ一つの型で鋳られた思考だけが支配的となり──あのごろつきども自身がそうであるように──こうして連中の奸智に長けた悪事は成功を収めるのだ。そしてこれは、権力の主体であると同時に、権力の餌食でもある彼らだからこそなせる技なのである。
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現代にあっては、自由の剥奪はおそらく、国家やテロリストなどによるあからさまな手段によっては実行されないだろう。ミシェル・フーコーは、ジェレミー・ベンサムの考案した監獄(パノプティコン)を転用するかたちで、現代社会における権力の正体を見事に描き出した。この監獄は、収容房が円形に配置され、中央に監視塔が設けられている。監視塔からは全ての収容房が一望できるが、収容房からは監視塔の様子を窺えない仕組みになっており、これは囚人が、自分はいつ見られているかわからないという環境から、自発的に自らの行為を改める効果を狙ったものである。今や、真の権力は大衆一人一人の中に溶け込んでおり、それぞれが互いに個人の内面に直接作用する。個々人はこの監獄の囚人のように、他者からの見えざる圧力を自分のものとして受け止め、知らず知らずのうちに自身の価値観を次から次へと上書きしていくことになる。そのため、各人はもはや「自分の欲していること」と「『自分が欲している』と思わされていること」との区別がつかなくなっているほどである。個人の自発心に訴えるわけであるから、この不可視の権力は従来の目に見える権力よりも効果的である。巷に溢れる広告の類を見ても、この傾向は顕著である。我々の思考や行動を制限しているのは、実は統治機構や武装集団などではない。それは日常諸君の身近にいる人々の観念であり、また諸君の脳裏に巣くう「トロイアの木馬」なのである。
1. ジョージ・オーウェル(高橋和久訳)『一九八四年』(ハヤカワEpi文庫)、早川書房、2009年、332頁。
2. 同ジョージ・オーウェル(高橋和久訳)『一九八四年』(ハヤカワEpi文庫)、早川書房、2009年、328―329頁。
3. オルテガ・イ・ガセット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1995年、105頁。