目下の安全保障関係の法案を巡る日本国内の混乱ぶりを見て、やはり平和や国の安全というものは一大問題なのだ、と思う人がもしかするといるかもしれない。かく言う筆者自身も、学問的な出自上、政治や外交に関する情報や知識を仄聞してきた身ではある。けれども筆者はこの場において、法学系のお偉方がやっているような、かの法案の違憲性だとか、「集団的自衛権」を認めるべきかとかいう問題に立ち入るつもりはない。それよりも、外国の人々からは奇異に映るあの日本人の偏執ぶり、すなわちあれほどまでに非武装に拘る日本人の頑迷固陋ぶりの方を取り上げたいと思う。なぜなら、彼らの心理構造の方が、我々にとって遥かに身近な問題だからであり、また我々の全生活を鷲摑みするほど極めて根深く、そして深刻な問題だからである。

彼らに対して「外敵から攻撃を受けたらどうするのだ」と問うても無駄である。というのも、そもそも議論の前提となる彼らの世界観、厳密に言えば世界の原始状態、自然状態に対する彼らの認識が我々のそれとは異なっているからである。どれほど異なっているかを示すために、まずは元社民党党首の土井多賀子による次の宣伝広告を見てみよう。



私たちは今、どんな時代に生きているんでしょうか。
一見穏やかな日々の暮らしも、揺れ動く情勢と共に大きな曲がり角を迎えています。
平和であることの安心。
働くことの安心。
育まれ、尊ばれることの安心。
そんな当たり前の安心な暮らしが隅っこに追いやられようとしています。
強い者だけが生き残ればよい、という政治でいいのでしょうか。
平和。年金。雇用。
安心な暮らしを支えるのは憲法です。
「社民党がいます。」

(圏点筆者)

彼女は「安心な暮らし」が「当たり前」だと言った。これこそ、日本人の大多数──そして世界中の大衆一般──が信じて疑わない世界の「本来の姿」である。つまり彼らにとって、世界は元々平穏なものであり、「したがってそれ自体において、すなわちその自然な性質のうえで、完全にすばらしくできあがっているのであり、至福の棲み家である」11. アルトゥール・ショーペンハウアー(秋山英夫訳)「法学と政治によせて」(『パレルガ・ウント・パラリポーメナ』第2巻第9章)、『ショーペンハウアー全集13』、白水社、2004年、32頁。。彼らからしてみれば、特段何もしなくとも、平和とか快適さは向こうから勝手にやってくるものなのである。

彼らの心理状態を端的に示すには、挿し絵の図解が最も適していると思う。これは、現行憲法が施行された1947年に、当時の文部省が中学生向けの教科書として発行した『あたらしい憲法のはなし』の挿し絵である。これを見るに、戦闘機や軍艦、爆弾など一切の軍需品を処分しさえすれば、そこから見事な文明がほとばしり出てくるというのである。だからこそ、楽天主義者である彼らの目には、戦争抛棄を謳った憲法22. 日本国憲法第9条
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
は新たな福音に映ったのである。

だが、彼らの楽観論に対して、我々はいくらでも反証を挙げることができる。何となれば、一企業の経営でも、上空を飛んでいる航空機の操縦でも、大海原を渡る船舶の操舵でも、人間の活動と言えるものならば何でもよい。それらがいかにして遂行されているかを思い浮かべてみるがよかろう。どれほど盤石で根強い安心感をもたらす活動であろうが、それらのどれをとってみても、微に入り細を穿った入念な計画の下に実行されるものであり、また寸分の油断も許されず、ほんの少しでも手綱を緩めればたちまちのうちに死の危機に瀕する、危険な綱渡りにも等しい行為であることに気づくはずだ。文明がもたらしてくれる便益は全て、こうした不断の努力の上に成り立つものであり、「エデンの国の樹になる自然の果実」33. オルテガ・イ・ガセット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1995年、114頁。ではないのである。

ところが、今日の文明はその努力の跡を感じさせないほどあまりにもよくでき過ぎているため、大衆は自らが受ける便益の有り難みを解するまでには至らないのである。先に述べたように、彼らにとって快適な生活とは「初めから存在するもの」であり、彼らは実際にそれを実現させてくれる人たちを「初めから存在する自分の快適さを維持すべき下僕」ぐらいにしか思っていないのである。彼らの態度こそ、オルテガが「自分の安楽な生存を可能にしてくれたすべてのものに対する徹底的な忘恩」44. オルテガ・イ・ガセット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1995年、114頁。と呼んだものに外ならない。70年間にわたって自分たちを戦禍から守ってくれたのは自国の「平和」憲法であってアメリカの軍事力などではない、と信ずる日本人の笑止の沙汰は実にここに由来するのである。

そして楽天的な日本人の忘恩は、自分の気に食わないことは何でも政府のせいにするという形をとって現れる。彼らにしてみれば、自分が貧乏なのも、大学に行けないのも、仕事が見つからないのも、熱愛の人が見つからないのも、全部政府の責任なのである。彼らの政治への多岐にわたる要求は、実はたった一つの言葉で要約することができる。それは「自分を無責任な幼児期に戻してくれ」ということである。だからこそ彼らは、颱風が来ても役所からの避難勧告がなければ動けない55. 松本浩司「伊豆大島土砂災害 出されなかった避難勧告」、日本放送協会、2013年10月22日。し、明日穿いていく下着もお上に決めてもらわないといけないほど幼稚なのである。

しかし、幼稚だと笑ってばかりもいられないのだ。彼らの幼稚性は便益を享受しながらそれに伴うリスクを引き受けるのを拒否するところにあるのだから、何か不都合があれば少数の者が不当な責任を負わされるという危険を孕んでいるのである。2011年の福島の原発事故に際して、東京電力の元役員が強制起訴された66. 「東電旧経営陣ら強制起訴へ 9件目 福島第1原発事故で検察審査会」、『産経新聞』、2015年7月31日。のは誠に腹立たしい限りだ。起訴を決めた検察審査会は一般市民から選ばれた検察審査員で構成されるが、偉そうに「刑事責任あり」と嘯いている彼らは、そもそも原子力というあんな危険極まりないエネルギー源を欲したのは一体どこのどいつなのかという点について、ものの5分も考えたことがないのである。

ホロコーストという恐るべき黒魔術を主導したアドルフ・ヒトラーは、悪魔の化身として、今日に至ってもなお世界中から憎悪の対象となっている。だが、上の事情を鑑みれば、もしかしたら彼も甘やかされた凡人の犠牲者かもしれないのである。平凡で何が悪いとばかりに居直り、何もできないくせに権利ばかり主張する彼らの残酷な実相は、このシリーズが進むにつれて、徐々に露となっていくであろう。