即席の言語は腐爛する
プラトンは『国家』の初めの部分を書き上げるのに7回も修正を重ねたそうだ11. アルトゥール・ショーペンハウアー(斎藤忍随訳)「著作と文体」(『パレルガ・ウント・パラリポーメナ』第2巻第23章)、『「読書について」他二篇』(岩波文庫)、岩波書店、1960年、108頁。。この点からもわかるとおり、書き言葉は目に見える形で残り、長き将来にわたって保存されるからこそ、人は文章を書くときには襟を正し、何度も推敲を重ね、よりよいものを書こうとする。ここに、保存性という書き言葉の特徴を見出だすことができる。保存性があるからこそ、記される言葉も一定の規範性を有するようになる。
これに対して、話し言葉は、演説や詩歌の類を別にすれば、即席の言語といっていい。というのも、会話をするにあたっては、瞬時に言葉を発しなければならないし、しかも発した言葉はその場で雲散霧消してしまい、後には残らないからである。必然的に語法や文法は崩れやすくなるし、一貫した法則も成り立ちにくくなる。よって、話し言葉の特徴は、生々しい、いや更に言えば「血腥い」のである。
上の点から、同じ言葉といえども、書き言葉と話し言葉とでは、その目的も性質も全く異なるものであることがわかる。だからこそ、戦前の日本語にはこの二つに截然たる区別が存在していたのである。ここから、文語調が格調高いものとされる理由も説明がつくし、各地の方言が共通語に比してやや格下の扱いを受けるのも蓋し当然といえる。
現代の日本語が悲惨を極めているのは、書き言葉を気まぐれな話し言葉に限りなく近づけるという無駄な努力の結果である。明治期の言文一致運動に始まり、法令含むあらゆる文章が口語化され、書き言葉と話し言葉との区別が曖昧となった今は、書き言葉そのものが皮相なものとなってしまった。文章を書くのに「漢字三割平仮名七割」のバランスが大事、などという馬鹿げた風習もある。とにかく読みやすさが命。これでは語法文法もあったものではない。
口語への偏重は表音主義の擡頭を惹き起こした。その結実が「現代かなづかい」(昭和21年内閣告示)の制定である。これにより、例えば文語の「問ふ」が正則的なハ行四段活用だったのが、口語の「問う」では未然形の音だけで無理やりワ行五段活用とされるなど、文法上の齟齬を来した。また、同時に制定された「当用漢字表」(昭和21年内閣告示)により公的に使用できる漢字の数が制限され、「同音の漢字による書きかえ」(昭和31年国語審議会報告)が推奨されたことで、「選考」などの語義を無視した表記が蔓延することとなった。
このような書記言語の改造という前例を許したことが、語法や文法の誤用に対する今日の過度な寛容に繫がっていると筆者は考えている。「はいつくばう」の代わりに「はいつくばる」、「独擅場」の代わりに「独壇場」という表記が罷り通っても、どこにも抗議の声すら上がらない。むしろ規範を推進すべき立場の者までもが、誤用を正すどころか、「言葉は変化する」「文法は後からついてくる」などと開き直って黙認したり推進したりしている有様で、逆に指摘をする側が謂れなき軽蔑を受けるような始末である。
表音主義者は、表音主義が文法を破壞するといふのに答へて、文法のために言葉があるのではなく、言葉が先で文法はあとからついてくればいいと申しますが、あまりいい氣にならないでいただきたい。それはある程度までの話で、あまり極端になると、制度のために個人があるのではない、個人が先で、それがしたいことをして成りたつ制度を考へればいいといふのと同樣、少し黴くさい思想になりはしませんか。たしかに文法のために言葉があるのではない。が、文法は破壞したくない。それが本當でせう。その意味において、文語の保存、敎育はどうしても必要ですし、文語と口語とのあまりの隔たりは避けねばならないし、その役割が文字言語に背負はされてゐることを忘れてはなりません。話すやうに書くなどといふことは、とんでもない間違ひです。22. 福田恆存『私の國語敎室』(文春文庫)、文藝春秋、2002年、320頁。
──福田恆存『私の國語敎室』
何度言っても決して言い過ぎにはならぬから繰り返すのだが、言語とは、意思疎通の手段である以前に、人間の思考を形成する土台となるものである。したがって、言語を改造するのは人間の思考そのものを歪曲するに等しい。カントは人間に一定の思考様式があることを解明したが、同様に言語にも一定の法則や規範がある。だからこそ異なる人間の間でも共通の理解が成立するのである。自由な思考を持ちたいと望む者は誰であれ、言語の改造には怒らなければならない。
規範から離れた言葉、推敲を経ていない文章というのは、獲物を食い荒らして口元を血塗れにしたまま闊歩する狼の姿と同じである。近年では、ソーシャル・メディアやチャットの普及により、言葉を思いついたままに性急に書き飛ばすのが当たり前になった。インターネットの普及で文筆への障壁も下がり、語法文法を軽視する傾向はますます顕著になっている。可視化された話し言葉の持つ「血腥さ」に呼応して、言葉そのものも暴虐の度合いを増してきている。もはや人間が話したり書いたりする言葉は獣の咆哮と何ら選ぶところがない。汚らしい服装はそれに対面する人への侮辱であり、対面する側は無視することでこの侮辱を罰するのが当然である。
1. アルトゥール・ショーペンハウアー(斎藤忍随訳)「著作と文体」(『パレルガ・ウント・パラリポーメナ』第2巻第23章)、『「読書について」他二篇』(岩波文庫)、岩波書店、1960年、108頁。
2. 福田恆存『私の國語敎室』(文春文庫)、文藝春秋、2002年、320頁。