「エッセンシャル・ワーカー」はなぜ薄給なのか
「職業に貴賤なし」とはいうものの、実際これを本気で信じている者はほとんどいないであろう。現実には、快適なオフィスで座り仕事をして高給をもらっているホワイトカラーもいれば、炎天下で肉体労働に従事していながら低賃金に甘んじているブルーカラーもいるからだ。日常を不自由なく暮らしていると、とかく我々はその日常を支える人たちを意識しなくなりがちである。感染症による行動制限のさなか、インフラストラクチャーを維持する人々の存在が耳目を集めると、彼らを指す「エッセンシャル・ワーカー」という語が生まれて流行した最近の事例は、儼然たる職業格差の存在を浮き彫りにした。
とはいえ、職業に格差があってはならぬとする規範意識が存するのもまた事実である。とある就職情報サイトが一時期、上記の「エッセンシャル・ワーカー」に相当する職種を名指しして「底辺の仕事」と呼び、世間から囂々たる非難を浴びたことは記憶に新しい。実のところ、他のサイトと同様、このサイトも結局は広告収入を当て込んだ煽情主義の産物だったわけだが、そうであるからこそ、理想と現実の狭間で揺れ動く世相が反映されているのだともいえる。
一体なぜこのような乖離が生ずるのか。
ひとつには、便益を享受する自分たちが、そうした格差を黙認しながら、同時に縁の下の人たちを気にかけており、見下したりはしていないと信じ込むことによって、自らが安心したいという心理が根柢にあろう。つまり、ニーチェが断罪した同情であるが、そうした大衆心理を掘り下げることが本稿の目的ではない。
問題は、現実において、労働の負担が万人に均等に配分されていない点である。
一切の原因が少数者に偏在している奢侈であることは論を俟たない。つまり、大多数の者たちの労力が、自分たちの必需品の代わりに、二、三の者たちの欲しがる贅沢品の生産に振り向けられているということである。これが疑いようのない真実であることは、自分の住む小屋さえ作れない労働者が高級な住宅の建築に従事しているという事実を思うだけで十分だ。しかれば、人類の有する労力には限りがある以上、労働から免れている者の数だけ、他の者たちに余分な重荷がのしかかることは必至で、これが黒人奴隷とか植民地支配とかいった惨禍を生む原因にもなったのである。したがって、豪奢を極める者がいる限り、それだけ過重労働と貧困が存続せざるを得ないのであるから、人間の悲惨を軽減したいなら、一切の奢侈を廃して肉体労働を均等に分けるしかない。
にも拘わらず、現実がそうなっていないのは、平等な労働の負担以上の便益を社会的分業がもたらしてくれるからという理由に外ならない。すなわち、各人が自給自足で自分の生活を維持するだけなら、せいぜい小屋を建てて耕作やら牧畜やらをするのが関の山だが、一人ひとりにそれぞれ異なる仕事を専任させれば、全体として自給自足以上の生活水準の向上が見込まれるということである。もし社会的分業がなかったら、清潔な水を飲んだり夜に明かりを得たりすることなどかなわないだろうし、まして病にかかったときに治療を受けることなど考えられもしないだろう。
各人が専門として行う仕事はいずれも社会を構成する機能の一部分であるから、それぞれの仕事の間に軽重の差がないことは勿論である。職業に格差があってはならぬとする規範意識はこの点に由来する。「職業に貴賤なし」は一説には江戸時代の思想家、石田梅岩の言というが、これは身分が固定的であった当時、梅岩は社会的分業の意義を説明し、各自が職分を果たすことの重要性を説いたものである。特に、元禄以降力をつけてきたために反感を買っていた商人にも、他の身分に劣らぬ大義を認めた。
士農工商は天下の治る相となる。四民かけては助け無かるべし。四民を治め玉ふは君の職なり。君を相るは四民の職分なり。士は元來位ある臣なり。農人は草莽の臣なり。商工は市井の臣なり。臣として君を相るは臣の道なり。商人の売買するは天下の相なり。細工人に作料を給るは工の祿なり。農人に作間を下さるゝことは、是も士の祿に同じ。天下萬民産業なくして、何と以て立つべきや。商人買利も天下御免しの祿なり。
──石田梅岩『都鄙問答』
なお、軽重の差がないことと待遇に差をつけることとは立派に両立し得る。そもそも分業体制とは機能の分化であるゆえ、陣頭に立って統率する者の存在を自ずと前提としているからである。
贅沢を廃してあらゆる肉体労働を均等に分けるべきだという右に述べたあの論拠に対して一考すべきことは、人類という大集団は、いついかなる場合にも、それぞれの問題に応じて、さまざまな姿で、指導者・指揮者・助言者をかならず必要とするということだ。〔……〕こういう指導者が肉体労働から解放されるとともに、卑俗なことの欠乏や不便にわずらわされないということ、それどころか、その大きな仕事の程度に応じて、普通の人より所有や享受の点でまさるものがなければならないということは、当然・至当のことである。11. アルトゥール・ショーペンハウアー「法学と政治によせて」(『パレルガ・ウント・パラリポーメナ』第2巻第9章)、『ショーペンハウアー全集13』、2004年、17―18頁。
──アルトゥール・ショーペンハウアー「法学と政治によせて」
楽器の奏者が音を出し合うだけでは合奏にはならない。全体の響きをまとめるには、指揮者の存在が絶対に必要なのである。こうした統率の役割を果たすには、知性の力を借りなければならない。知性が有効に働くためには、雑多な作業で手が塞がっているようでは駄目で、黙考できるだけの余裕が常に必要なのだ。確かに芸術や科学は贅沢の産物だけれども、それらのもたらす判断は、統率者自身だけでなく末端の作業者にも作用するものである。したがって、その待遇にはどうしても他と差をつけざるを得ない。ホワイトカラーの高給はこの点に基づくのである。
あの贅沢に営々と奉仕する労働によって、人類はその必要欠くべからざる目的にふりむける筋力(刺激性)の点では失うところがあるのだが、そのかわりに、まさにそういう機会に(化学的意味で)遊離してくる神経力(感受性、知性)によって、その穴埋めが徐々にではあるがいろいろなされるということである。というのは、神経力のほうが高級な力であるから、その仕事もまた筋力の仕事にはるかに優っているからだ。22. アルトゥール・ショーペンハウアー「法学と政治によせて」(『パレルガ・ウント・パラリポーメナ』第2巻第9章)、『ショーペンハウアー全集13』、2004年、15―16頁。
──アルトゥール・ショーペンハウアー「法学と政治によせて」
(圏点、括弧内原著)
土建屋や工員は勿論必要である。だが、それらばかりが集まっても生活水準は向上しない。どうしても待遇の差に納得がいかないというのなら、統率者とともに単純労働も廃して、各自がてんでんばらばらに自分の面倒を見ればよいということになってしまう。それは、今の便利な暮らしをほとんど手放して、原始的な生活に戻るということである。
1. アルトゥール・ショーペンハウアー「法学と政治によせて」(『パレルガ・ウント・パラリポーメナ』第2巻第9章)、『ショーペンハウアー全集13』、2004年、17―18頁。
2. アルトゥール・ショーペンハウアー「法学と政治によせて」(『パレルガ・ウント・パラリポーメナ』第2巻第9章)、『ショーペンハウアー全集13』、2004年、15―16頁。