2023年8月12日

「私、馬鹿だからわかりません」

それは「大衆」の持つ不寛容の発露

ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883―1955年)

「おれ、バカだから」と言う人って、じつはほんとうにバカなのです。バカであることはその言動のすべてから明らかであるのに、話がややこしくなるとすぐこう言う。そして、窮地を逃れようとする。こんな人には、上段から構えて、「あなたがバカであることは、とうにわかっているのです。さっきから、バカにもわかるように話しているんです」と言いたくなる。11. 中島義道『私の嫌いな10の人びと』(新潮文庫)Kindle版、新潮社、2008年、位置No. 2048。

──中島義道『私の嫌いな10の人びと』

「私、馬鹿だからわかりません」──一見謙遜を装っているこの言葉には、実は4つの真意が隠されている。

まず第一に、ただ単に「わからない」のではなく、「わかろうとする気などはなからない」。なぜなら、第二に、「自分が馬鹿で何が悪い」と開き直っているから。つまり、愚かでいることは正当な権利である。第三に、そうである以上、自分が理解しようと努める必要性など皆目ない。「わかろうという気にさせてくれなかった相手が悪い」。したがって、第四に、自分は万事を擅断するのが当然であり、「自分が歩み寄って対話に応ずるなどまかりならぬ」。

要するに、これは自らの愚かさを逆手にとった絶縁宣言である。

この台詞を発する者の真意が、オルテガが言うところの「大衆」の特徴と完全に同一のものであることに、疑念を差し挟む余地は全くないであろう。

今日の特徴は凡俗な人間がおのれが凡俗であることを知りながら凡俗であることの権利を敢然と主張しいたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである22. ホセ・オルテガ・イ・ガセット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1995年、21―22頁。

(圏点原著)
「討論の息の根を止めよ」

不自由さを極限まで克服した現代文明は、平均人にある種の全能感をもたらした。その全能感が平均人にあるがままの自分を肯定せしめ、自己満足に陥らせる。自己への懐疑を失った平均人は、他者との差異を意識しなくなり、皆と同類であることに快楽を覚えるようになる。これがオルテガの描いた「大衆」の姿である。

「大衆」を最も特徴づけるのは、不寛容、すなわち異質な者と渡り合おうとする意志の欠如である。同質の者に囲まれた「大衆」に、利害関係というものは存在しない。利害関係の存在しないところに、調整や対話というものは存在しない。対話の存在しないところに、共存という文化は存在しない。共存の文化が存在しない代わりに、あるのは自らの凡庸を強行する直接行動のみが支配する未開の文化である。

最良の共存形式は対話であり、対話を通してわれわれの思想の正当性を吟味することであると信ずることに他ならないのである。しかし大衆人がもし討論というものを認めたとすれば、彼は必然的に自己喪失に陥るであろう。そこで彼は本能的に、自己の外にある最高審判に敬意を払うべき義務と絶縁しようとするのである。かくして、「討論の息の根を止めよ」というのがヨーロッパの「新」事態となってきたのであり、そこでは、普通の会話から学問を経て議会にいたるまで、客観的な規範を尊敬するということを前提としているいっさいの共存形式が嫌悪されるのである。これはとりもなおさず、文化的共存、つまり、規範のもとの共存の拒否であり、野蛮的共棲への逆行に他ならない。33. ホセ・オルテガ・イ・ガセット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1995年、104頁。

「討論の息の根を止めよ」とは、調整に伴う忍耐の抛棄、共存との訣別である。冒頭の台詞はこれを言い換えたものなのである。

その台詞によって対話を打ち切ってしまう現象に、今日我々は嫌というほどお目にかかっている。例えば、ソーシャル・メディアでの罵詈讒謗ばりざんぼう他人の指摘に耐えられぬジャーナリスト、北米合衆国の衆愚政治、常軌を逸した政治的妥当性ポリティカル・コレクトネスとそれに基づく芸術破壊バンダリズム、といったことどもである。それにしても、「多様性」の大合唱が、却って多様性を阻却し、秩序の紊乱ぶんらんを招いている有様には、啞然とするばかりである。

敵と共存する

デモクラシーが「最悪」と言われながらも、同時に最もましな政治制度だとされているのはなぜか。ダールが明らかにしたように、その実現には寛容のコンセンサス、すなわち合意形成にかかる受忍を要求しているからである。

多種多様な目標、思想、利害関係を有する異質な諸集団の間で合意の形成を図るのは、まどろい面倒な作業ではある。しかしこの手続きによって、秩序が生まれ、流血などの悲劇的事態を避けることができる。これは、人間の理性が編み出した偉大な発明の一つといっていい。

だがこの発明は、あまりに理想的で高度な技術を要求するゆえ、寛容に臨むことが安全であるという確信が持てないと、たちまちのうちに瓦解してしまう脆弱さを孕んでいる。左右双方の急進派による非難の応酬が日を追う毎に激しさを増していく現実は、この理想が試煉の場に立たされていることを如実に物語っている。

敵と共存する! 反対者と共に政治を行なう! かかる愛は、もはや理解されえないものになり始めているのではなかろうか。今では反対派が存在している国がほとんどないという事実ほど、今日の様相を明確に示しているものはない。44. ホセ・オルテガ・イ・ガセット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1995年、107―108頁。

フランス革命の後に続いた抑圧への逆行が現代の世界で繰り返されないと、一体誰が保障してくれるのであろうか。

 

1. 中島義道『私の嫌いな10の人びと』(新潮文庫)Kindle版、新潮社、2008年、位置No. 2048。
2. ホセ・オルテガ・イ・ガセット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1995年、21―22頁。
3. ホセ・オルテガ・イ・ガセット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1995年、104頁。
4. ホセ・オルテガ・イ・ガセット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1995年、107―108頁。



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