2023年8月5日

日本における民主化の過程

自由化と包括性は進んだものの不寛容が残存

自由民権運動の演説会(『絵入自由新聞』の挿絵)

前回は、ロバート・ダールによるポリアーキーの理論を取り上げ、イギリス、フランス及びドイツにおける事例を当てはめて、民主化までの道筋を検証した。そして、まず異議申し立ての許容度を高め、少数のエリートから徐々に政治参加者の数を増やしていくのが、最も穏当な民主化のプロセスであることを確認した。そこから見出だされた民主化の必要条件は、政治参加者間における寛容のコンセンサスであった。

では、日本の政治史をポリアーキーの理論に当てはめると、何が見えてくるだろうか。

藩閥政治と自由民権運動

日本の近代政治は、1867年の大政奉還の後、明治維新を主導した雄藩勢力による政権から始まった。所謂いわゆる藩閥政府と呼ばれるこの政権は、薩摩、長州、土佐及び肥前の各藩出身者が要職をほぼ独占する典型的な寡頭政であり、包括性は低かったといえる。

藩閥政府の専制に対する最初の異議申し立ては、政府内の権力闘争に敗れた土佐勢力により行われた。征韓論争で下野した土佐出身の板垣退助らが、議会開設、集会の自由などを要求し、自由民権運動を主導した。これに対して明治政府は、漸次立憲制に移行することを約束する一方、ざんぼうりつ、新聞紙条例などを制定して政府批判を取り締まった。

大久保利通の暗殺(1878年)以来政府では首脳どうしの内紛が生じ、1881年10月には肥前出身の大隈重信が追放される事件に発展した。これにより政府内部では保守化が進み、民権運動への弾圧がより強化されるようになる。

民権派では板垣の自由党と大隈の立憲改進党の両勢力による党派争いが続いていた。だが、前者は内部の不満分子による暴発と政府の弾圧とによって空中分解し、後者も大隈の離脱で活動休止となった。その後、憲法制定(1889年)及び議会開設(1890年)が近づくと、民権運動が再興、紆余曲折を経て1898年に両党は憲政党として一時的に合同する。

大日本帝国憲法の制定

大日本帝国憲法下の帝国議会には制約が多かったものの、議会の同意なしでは予算や法律が成立しない仕組みであったため、政党の影響力が次第に増していくことになった。

日清戦争の後に再び旧自由党系単独となった憲政党は、政党政治を摸索していた伊藤博文と合流し、1900年に立憲政友会が成立する。この頃から藩閥と政友会とが政界を二分するようになり、桂園時代に引き継がれる。

大正デモクラシー

大正時代に入ると、政党勢力の勢いが増してくる。第3次桂内閣は藩閥政治であるとして批判され、組閣から53日で総辞職に追い込まれた。続いて、第一次大戦による米価高騰を受けて、1918年には全国で民衆騒擾が発生した。これを受けて政府では政党内閣を認める方向に転換し、同年には平民籍の原敬が首相に就いた。

総力戦として進められた第一次大戦は、国内の社会運動を勢いづかせた。1924年に成立した清浦内閣の超然主義に反撥した各政党は護憲運動を進めて総選挙に圧勝し、憲政会11. 憲政党から分離した憲政本党の流れを汲み、1916年の寺内正毅による超然内閣に対抗して結成。の加藤高明が政友会などとの連立内閣を組織した。第1次加藤内閣の下で、1925年に普通選挙制が実現する。第1次加藤内閣から8年間、政友会と憲政会(のち立憲民政党)の二大政党が政権を担う憲政の常道が続いた。

軍部の擡頭から翼賛体制へ

しかし、多額の資金を要する普通選挙は政党の金権政治を招き、恐慌の影響も相俟って軍人や右翼の不満が噴出、ついには海軍青年将校による犬養毅首相暗殺にまで発展する(五・一五事件)。テロ活動に萎縮した政界は、軍部に政治の座を明け渡すことになった。以後、政党の力は衰え、1940年の翼賛体制へと繫がっていく。

戦後

占領軍の統治を経て再出発した戦後の日本では、新憲法により自由権が拡充され、女性参政権が実現した。政党政治も復活し、戦前は禁止されていた無産政党の結成も許されるようになった。

関連記事
いまだくすぶる亡霊──『真説日本左翼史──戦後左派の源流1945―1960』

左派勢力の中心は、戦前の労農派マルクス主義を柱に無産政党を結集した日本社会党が担った。一方保守政党は、戦中の翼賛選挙での非推薦議員だった旧立憲政友会系の日本自由党、翼賛選挙での推薦議員だった旧立憲民政党系の日本進歩党(のち日本民主党)の二大勢力が主であった。1955年に日本社会党が伸長したのを機に、両者は合流して自由民主党となったが、その後も党内で派閥として競い合う関係となる。形式上自民党と社会党は二大政党制となったが、前者が国政選挙で単独過半数を占め続けて政権を維持し、後者が3分の1を維持して改憲と再軍備を沮止する55年体制が出来上がった。

『ポリアーキー』に基づく考察

以上をダールの理論に則って整理すると、包括性が広まった後に自由化が高まるという順序となる。まず、明治維新によって薩長土肥による寡頭政が成立した後、そこから排斥された土肥勢力が政党を作って自由民権運動という異議申し立てを行った。憲法制定及び議会開設を機に藩閥と政党による二大勢力となったのに続いて、大正デモクラシーにおける社会運動を背景に政党政治が確立した。

だが、包括性が拡充される一方で、言論の自由や集会結社の自由が制限されるなど、公的異議申し立ての次元は十分ではなかった。特に政党政治の崩壊後は、共産主義だけでなく自由主義的な思想も弾圧の対象になっていた。自由化の進展は戦後の新憲法制定まで俟たなければならなかった。

さて、今日の日本は高度なポリアーキーを達成した状態にあるが、それは安定的といえるだろうか。確かに、立憲政友会と立憲民政党を遠い淵源にもつ自民党は、長らく政党政治を経験しているから、寛容のコンセンサスは十分であろう。だが、その他の政党はどうか。現在ある左派政党は、占領軍の解放政策の一環で合法化されたものであるから、利害調整への耐久性が乏しい。社会党の流れを汲む立憲民主党や、革命の旗を降ろしていない日本共産党が不寛容の傾向を示しているのは、この点に起因するのではなかろうか。

 

1. 憲政党から分離した憲政本党の流れを汲み、1916年の寺内正毅による超然内閣に対抗して結成。



過去の記事