民主化には踏むべき順序がある
韓国では、大統領が替わると、なぜか決まって前任者が非業の末路を辿ると言われる。大統領への過度な権限集中、再選禁止による政権末期のレーム・ダック化など、理由は様々考えられよう。ここで筆者は、安定した民主化に必要なある条件が欠けている点を一つの仮説として提起しようと思う。これは、クーデターや政情不安が珍しくない他の途上国にも当てはまることである。
その条件とは、反対勢力に対する相互安全保障である。それが確立されるためには、民主化に向けて適切なプロセスを経る必要があることが示されている。
自由化と包括性
アメリカの政治学者ロバート・ダール(Robert Alan Dahl、1915―2014年)は『ポリアーキー』(Polyarchy: Participation and Opposition, 1971)の中で、自由民主主義11. ダールは、理念型としての自由民主主義に近似する現実の政治体制を「ポリアーキー(polyarchy)」と名付けて区別したが、ここでは一般的な語を用いるものとする。を構成する要素として自由化と包括性とを挙げ、両者を2つの次元として設定することで、政治体制を分析する上での尺度とした。
自由化とは、国家による干渉や強制から各人の自由がどれだけ確保されているかを示す尺度である。すなわち、今日自由権と称せられるもの、例えば思想良心の自由、表現の自由、集会結社の自由などを指す。必然的に、政府への批判がどこまで認められているかを示すことになるため、公的異議申し立てとも呼ばれる。
包括性とは、体制内において政治参加がどの階層にまで認められているかを示す尺度である。
自由化及び包括性それぞれの発達の度合いに応じて、あらゆる政治体制は以下の4象限に分類されうることになる22. ロバート・A・ダール(高畠通敏、前田脩訳)『ポリアーキー』(岩波文庫)、2014年、13―16頁。。特に、かつて自由も包括性もなかった西欧の各政治体制が、どのような経路を辿ってポリアーキー、つまり自由民主主義を達成したかを見ることで、その実現に向けた最適な手順を推し量ることができるというわけである。
民主化の類型
イギリス
イギリスでは、名誉革命(Glorious Revolution、1688―1689年)によって議会政治が確立したのを皮切りに、トーリーとホイッグとによる二大政党政治が展開された。当初は貴族、上層市民及び一部の中産者にしか認められていなかった参政権が、数次の選挙法改正によって徐々に広げられ、産業資本家や労働者にも政治参加が認められるようになった。1918年の第4回改正では普通選挙が実現し、1928年には男女による区別も撤廃された。
この経路は、まず少数のエリートの中で自由度を高め、政治体制の成熟に応じて政治参加の裾野を広げていくという形態である。ダールは、歴史的に古く、より安定した民主国家で最も一般的な歴史展開であるとしている33. ロバート・A・ダール(高畠通敏、前田脩訳)『ポリアーキー』(岩波文庫)、2014年、59頁。。
ドイツ
1871年に成立した帝政ドイツでは、名目的ではあるものの普通選挙が実施され、広汎な政治参加が認められていた。しかし、帝国宰相ビスマルクにより天主教徒や社会民主党が弾圧されるなど、異議申し立ての自由度は低いものであった。
第一次大戦後、ワイマール憲法によって一旦は自由化と包括性が両立されるかに見えたが、ヒトラー率いるナチスによって全体主義に逆行してしまった。その後は連合軍の軍政と東西分裂を経て、自由化が進展した。
ドイツの例は、まず政治参加の幅を広げた後に自由化の度合いを高めていくという経路を示すものとされている。
フランス
フランスは上2例に比べて複雑な経過を辿る。
王政の打倒と共和政の樹立を目指したフランス革命は、ジャコバン派の独裁及びそれに続くナポレオンの専制により失敗に終わる。ナポレオンが失脚した後の戦後処理では、正統主義により再び王政の復活を見た。こうして1815年のウィーン体制成立までの過程を見ると、フランス革命とは、閉鎖的な抑圧体制から一気に自由化と包括性とを拡充する試みであることがわかる。
その後は概ねイギリスが辿った経緯に近い。七月革命(1830年)により成立したオルレアン朝では産業資本家が擡頭し、続く二月革命(1848年)では自由主義の進展が促された。その後、ナポレオン三世(ルイ゠ナポレオン)の第二帝政、第三共和政を経て国民統合が進められた。途中、ナチス・ドイツによる占領を経験しながらも、戦後は共和政体が再建されたが、植民地アルジェリアの処遇をめぐる軍部の分裂などの混乱がしばらく続いた。
寛容の定着が不可欠
以上の3例のうち、イギリスのような第1例が最も穏当な民主化プロセスといえ、第2及び第3の独仏の例は不安定あるいは危険な手順であると評価される。なぜなら、政治参加の幅が広がるにつれて利害関係者の数が増えるので、調整の負担とともに衝突の危険性が増すからである。したがって、まずは少数者の間で寛容のコンセンサスを醸成することが望ましい。そうでないと、むやみに政治参加者を増やしても、反対勢力に寛容にのぞむことが安全であるという確信が持てず、為政者は安易に抑圧の手段を講じやすくなる44. ロバート・A・ダール(高畠通敏、前田脩訳)『ポリアーキー』(岩波文庫)、2014年、24頁、60―62頁。。これが、急激な共和政への移行が一筋縄ではいかない主な要因である。
韓国の例に戻ると、こうした寛容を醸成するプロセスが欠落しているように思う。朝鮮半島では、もともと李朝時代から党派間の争いが激しかったことに加えて、君主政の崩壊後すぐに日本に併合されたため、自由化と包括性を高める余裕がなかったものと考えられる。権威主義政権による弾圧の記憶もあり、韓国では未だ左右の対立が激しい。
「不俱戴天の敵」のままでは、民主政の成熟は覚束ない。
1. ダールは、理念型としての自由民主主義に近似する現実の政治体制を「ポリアーキー(polyarchy)」と名付けて区別したが、ここでは一般的な語を用いるものとする。
2. ロバート・A・ダール(高畠通敏、前田脩訳)『ポリアーキー』(岩波文庫)、2014年、13―16頁。
3. ロバート・A・ダール(高畠通敏、前田脩訳)『ポリアーキー』(岩波文庫)、2014年、59頁。
4. ロバート・A・ダール(高畠通敏、前田脩訳)『ポリアーキー』(岩波文庫)、2014年、24頁、60―62頁。