2023年7月23日

空言人たちの断末魔

「コミュニティノート」に怒り狂う者たち

関東大震災(1923年)の際に発生した流言に対して警視庁が出した警告ビラ

甚だ見苦しい光景である。

ソーシャル・メディアの「Twitter」で、「コミュニティノート」なる機能が本格的に始まった。これは、誤解を招くと思われる投稿に閲覧者が註釈を追加できるというものである。学会誌における査読に近い機能ともいえようか。

これにより、「新聞記者」「ジャーナリスト」などを僭称して、普段から不正確な情報を吹聴する者たちがあぶり出されているのである。

例えば、霞ヶ関各庁の会見場に押しかけては、自分の主義主張を延々とまくし立てることで有名な、『東京新聞』の望月衣塑子。新聞記者というよりは、講演活動で自説を披瀝する活動家のイメージが強い人物である。『東京新聞』は常習的に真偽の疑わしい記事を発信しており、望月も「Twitter」で言及して風説流布に荷担している。

註釈は、通俗的な大衆紙は言うに及ばず、ミスリードな見出しを掲げた公共放送の投稿にも付けられた。

註釈に異論があるのなら、根拠となる資料を挙げて反論すればいいだけだが、そういう姿勢は文筆家たちには見られない。

『沖縄タイムス』の阿部岳に至っては、敵対する相手への常套句を吐き捨てるという体たらくである。

阿部は以前に出演した番組で共演者に講釈を垂れるなと説教していたが、その割には対論能力は恐ろしく貧弱、そのうえ気位だけは相当なものだ。福島の原発処理水に関する流言蜚語が上のような面々から出てきたのは驚くに値しない。こうした者たちが、今までいかに楽をして仕事をしてきたかがわかる。必要な論拠を揃えるのは、放言するのに比べて何百倍も労力を要するからである。

2014年の発表直後に指摘されたSTAP細胞にまつわる研究不正で見たように、疑義に対して根拠に基づいた反論ができなければ、撤回を余儀なくされるのが当然である。それが説明責任(accountability)というものであろう。

しかし、上の法螺吹きといえば、罵詈讒謗を残して逃げ回ってばかり。直接行動しか知らぬ野蛮な連中の所業が白日の下に晒されるのは、喜ばしいことである。

無論、「コミュニティノート」のもたらす効果は未知数である。『ウィキペディア』の記述が完全に正確とはいえないのと同様、「コミュニティノート」自体の信憑性が今後の課題となる。それでも、『ウィキペディア』が一定の信頼性を担保できているのは、論文執筆に倣った検証可能性を実現しているからであろう。全ての言論が批判に晒されることで、ドグマに陥るのを防ぐことが、「開かれた社会」の構築には不可欠である。



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