パレスチナ問題の真因を問う
現在まで続くパレスチナ問題をめぐっては、第一次世界大戦におけるイギリスの謀略が原因だとよく言われる。すなわち、オスマン帝国の解体を目的として、アラブ、ユダヤ、フランスに対してそれぞれ結ばれた3つの協定が相互に矛盾した内容だからというものである。日本ではイギリスの「三枚舌外交」と揶揄され、歴史の教科書でもよく槍玉に挙がるものであるが、各協定を詳細に検討すると事実誤認であることがわかる。
フサイン―マクマホン協定
1915年から翌年にかけて、カイロ駐在の英高等弁務官ヘンリー・マクマホンとメッカの太守フサイン・イブン・アリーとの間で10通の書翰が交わされた。一連の書翰はフサイン―マクマホン協定(Hussein–McMahon Correspondence)と呼ばれるもので、これはオスマン帝国に反抗して対英協力する見返りに、アラブ人居住地の独立支持を約束するというものである。
特に、1915年10月にマクマホンからフサインに送られた4通目の書翰の中で、アラブ人居住区の境界線について以下の提案がなされている。
The two districts of Mersina and Alexandretta and portions of Syria lying to the west of the districts of Damascus, Homs, Hama and Aleppo cannot be said to be purely Arab, and should be excluded from the limits demanded [...] As for those regions lying within those frontiers wherein Great Britain is free to act without detriment to the interests of her ally, France [...] Great Britain is prepared to recognise and support the independence of the Arabs in all the regions within the limits demanded by the Sherif of Mecca.
(メルシン及びアレクサンドレッタの2つの地区、並びにダマスカス、ホムス、ハマー、アレッポの各地区より西側に位置するシリアの一部は、純粋なアラブとは言えないため、提案される境界線から除外されるべきである〔……〕これらの境界線内の地域については、英国は同盟国フランスの権益を損なうことなく自由に行動することができる〔……〕英国は、メッカの太守が提案する境界線内の全ての地域におけるアラブ人の独立を承認し、支持する用意がある)
このうち、ダマスカス及びアレッポから東の地域は、後述のサイクス―ピコ協定でフランスの勢力圏とされた部分と重複するが、少なくともパレスチナ地域が含まれていないことは明白である。フサイン側も返信の書翰の中でパレスチナの所属確認はしていない。
サイクス―ピコ協定
1915年に大戦後のオスマン帝国領の勢力分割に関する水面下の交渉がイギリス、フランス、ロシア帝国の間で始まり、翌年ペトログラードで秘密協定が結ばれた。英仏の原案作成者の名を取ってサイクス―ピコ協定(Sykes–Picot Agreement)と呼ばれる。
この協定で、シリアとアナトリア南部、イラクのモースル地区がフランスの勢力範囲、シリア南部と南メソポタミアがイギリスの勢力範囲と規定され、聖地エルサレムを含むパレスチナは共同統治とすることとなった。
マクマホン書翰でアラブ人居住区の一部がフランス勢力範囲と重複していたことは、フサインの三男ファイサルによるダマスカス入城(1918年)を招いた。フランスの反対に遭い、ファイサルは1920年にダマスカスを追放されたが、翌年イギリスからイラク王に据えられた。また、フサインの次男アブドゥラーはイギリスからトランス゠ヨルダンの首長の地位を与えられ、後にヨルダンとなる。つまり、フランス勢力範囲を除き、アラブ人に土地を与えるというマクマホン書翰の約束は果たされたことになる。
バルフォア宣言
イギリスの外相アーサー・バルフォアは、第一次大戦における戦費調達のため、銀行家の嫡男でユダヤ人のウォルター・ロスチャイルドを通じてアメリカのシオニスト連盟に働きかけ、将来におけるパレスチナでのユダヤ人居住地(a national home)建設に賛意を示し、支援を約束した。この書翰はバルフォア宣言(Balfour Declaration)と呼ばれる。ただし、これにはパレスチナ先住民の権利を保全することが明記されており、パレスチナを国際管理としたサイクス―ピコ協定との兼ね合いからも、国家(state)の樹立を企図したものではないことがわかる。
以上からわかるとおり、3つの協定のうち、パレスチナに言及しているのはバルフォア宣言だけである。マクマホン書翰でアラブ人とフランスとの権益が相反する事象はあったものの、その当事者フサインの子アブドゥラーとファイサルですら、ユダヤ人のシオニズム(パレスチナ帰還運動)には賛意を示していたのである。したがって、ことパレスチナに関して言えば、3協定が互いに相反していたゆえにパレスチナ問題の原因となったと結論づけるのは困難である。
そもそもパレスチナにおけるユダヤ人とアラブ人との対立は、20世紀に入ってユダヤ人人口が増加してから激化したものである。特に1930年代は、ナチス政権による迫害によってドイツから逃れたユダヤ移民が急増し、アラブ人の反感が最高潮に達した時期に当たる。したがって、パレスチナ問題の原因を探るには、イギリス委任統治期の歴史を再検討する必要がある。