2016年2月8日

現代のニュースピーク

言語を破壊する者は人間を破壊する


どの言語を使うにせよ、それが正確で含蓄のあるものにするためには、ギリシャ語、ラテン語、漢文、サンスクリット、アラビア語といった古典語を学ぶことが絶対に必要だ。なぜなら、例えば英語のtelephone1という語自体がギリシャ語であることからもわかるように、世界中の大部分の言語が上の5つの古典語のいずれかに由来を持っているからである。こういう事実を顧みることなく、古典語を等閑視してきた結果として、今日ではあらゆる言語が目も当てられないほど毀損されている。

例えば英国人は、フランス語由来であるbureauの複数形はフランス人気取りでbureauxと綴るくせに、ラテン語由来のagendaに関してはその複数形として(agenda自体が複数形であるにも拘わらず)手前流儀にagendasなどと綴るのである。もし彼らがラテン語の素養くらいは辨えているということを示したいのなら、ラテン語の規則通り単数形をagendum、複数形をagendaとすべきだろう。ところが実際は、ただ単にラテン語を知らないか、あるいは知っていても──フランス語の場合と打って変わって──そんなものに従う道理はないと決め込んでいる具合なのである。更に甚だしいことに、ギリシャ語由来のoctopusの複数形をやはり手前流儀にoctopusesとし、本来の綴りであるべきはずのoctopodes2という表記はペダンティックだと言って嘲り笑っている始末だ。

この頃フランスではアクサン・シルコンフレックス(accent circonflexe)を廃止するそうだが、これなどまさに「怠惰のれっきとした看板、無知の温床だ」3。「つづりの間違いが起きる主な要因の一つで、使用法にも一貫性がない」4というのが廃止する理由だというが、でたらめな判断を下すのもいい加減にせよ。アクサン・シルコンフレックスには、語源となるラテン語や古フランス語にあった音の脱落を示す目印、というれっきとした根拠があるのだ。例えば、コート・ジボワール(Côte d’Ivoire)côte(海岸)はラテン語のcostaが語源である。つまりsの脱落を示すためにoの上にアクサン・シルコンフレックスが付されているわけで、これがないとcote(評価、寸法)との区別がつかなくなってしまう。こうなれば日常の至るところで誤読や書き間違いが起きるのは必定で、元々「百姓のせがれが、たまたま〔……〕ギリシア語の単語をだれかほかの人が口にしているのを小耳にはさんで、それを書きとめたようなぐあい」5のこの言語に恥を上塗りするような結果となろう。

当用漢字やそれに続く常用漢字の制定、新仮名遣いの採用などによる日本語の畸形化も上のフランス語の例と似たようなもので、これは戦後の占領軍による政策もあったとはいえ、それ以上に国語審議会の席を占めていた似非学者どもの音頭によるところが大きい。その動機はただ一つ、旧仮名遣いや旧字体を使うのが面倒だという点に尽きるのである。こういう輩のせいで、活用の規則性が損なわれ、また漢字制限に基づく誤記がはびこることとなったのである。漢字を満足に書けず、国語の試験答案でもとんでもない当て字を書く者が後を絶たないが、これは何もデジタル・デバイスが普及したせいではなく、漢字制限による同音異字への書き換え推奨により、表意文字としての漢字の機能が軽視された結果なのである。「沈澱」を「沈殿」と書いたり、「彎曲」を「湾曲」と書いたり、「洗滌」を「洗浄」6と書いたりと、昔ならば大恥をかいたであろう表記が平気で罷り通り、今となっては荷厄介な漢字など全く習得する気がなく、平仮名にして通じるならばそれでいいなどと開き直っているようなざまだ。特に、常用漢字表に載っていないからといって、「炬火」を「きょ火」というふうに仮名文字と交ぜ書きをするのは、形態素の解体によって言語を荒らす暴挙である。更にもっと始末の悪いことが一般的に行われている。それは、「障害」の「害」が「害悪」を示していて好ましくないという理由で「障がい」に書き換える例のように、曲解に基づいて言語に手を加えることだ。「障害」の「害」は「害悪」という意味ではなく、「妨害」の「害」と同じに「さまたげる」という意味なのだから、「障害」という表記は別に差別を企図したものではないし、わざわざ別表記に置き換える必要もない。何より腹立たしいのは表記変更を推し進める者どもが自らの無智を棚に上げている点であり、手前の気まぐれ、たわごと、妄想、偏見で勝手に言葉を作り直そうなどというのは野蛮人による横暴の最たるものだ。

共産政権下の中国なんかに至っては、もうめちゃくちゃとしか言いようがない。ここで使われている簡体字と呼ばれる漢字では、音符が別のものに置き換わっていたり、字義を解する手掛かりである偏旁そのものが省略されていたりと、全く原形を留めておらず、こんなものが国連公用語として由緒あるアラビア語と同列に扱われていること自体滑稽だ。はっきり言って、この国の文字文化はもうおしまいである。この先偉大な精神がこの土地から生まれることはないだろうと思う。

なぜといって、言語というものはコミュニケーションの道具である以前に、数学と同じく思考の基礎を形成するものだからだ。だから、ギリシャ語やラテン語のような、時制や語彙が豊富で、修飾・被修飾の関係が明確である言語を用いていれば、視界はきめ細かく鮮やかなものとなるが、そうでない言語では画素数の乏しいモザイク画のような粗い画像しか得られない。だから、ジョージ・オーウェルが『一九八四年』(Nineteen Eighty-Four, 1949)の中で、ニュースピーク(Newspeak)という単純化した言語を支配の道具として描写したのは誠に慧眼であった。言語の改変が支配者からのトップダウンによるものであろうと、あるいは大衆の怠惰によるものであろうと、事情は変わらない。言語を丁寧に扱わず、都合良く作り替えたりするのは、他人に対して洗脳やマインド・コントロールを施したり、あるいは他人の脳髄に直接手をかけてすっかり不具にしてしまったりするのと同じことである。厄介なのは、一度改変が行われてしまえば、元に戻すのは非常に困難であることだ。「悪貨は良貨を駆逐する」の諺通り、言語の有用性はその普及の度合いに左右されるため、いかに誤った語法であっても、猫も杓子も使うようになれば無視するわけにはいかなくなるからだ。だから筆者はむしろ、襤褸切れの現代語が更に落ちぶれてがらくた同然になることを願っているのである。そうなれば、ギリシャ語やラテン語のような良質の古典語と、それらで著されたいにしえの偉大な思想だけが生き残るであろうから。


1. τῆλε(遠く)+φωνή(音)。
2. 単数形は「ὀκτώπους」、複数形は「ὀκτώποδες」。
3. アルトゥール・ショーペンハウアー(秋山英夫訳)「言葉と単語について」(『パレルガ・ウント・パラリポーメナ』第2巻第25章)、『ショーペンハウアー全集14』、白水社、2004年、185頁。
4. 「フランス語のつづり見直し、消えたアクセント記号に怒り沸騰」、『AFPBB News』、2016年2月5日。
5. ショーペンハウアー、前掲書、185―186頁。
6. 「洗いすすぐ」意では「洗滌(センデキ)」が本来の表記。「洗浄」は、本来仏教で心身を洗い清めるの意であったのが、当用漢字の制定に伴い、「洗滌」の慣用読みであったセンジョウの代替として転用されたもの。