2026年3月26日

売買春を処罰すべきか──自由と犠牲との背理

「純潔」のみを称揚する偽善

新宿ノ歡樂街歌舞伎町
新宿の歓楽街、歌舞伎町

売春防止法を見直すための法務省の検討会が24日に始まった。来年の通常国会までに法改正を目指すという。

現代民主主義社会において、個人の自由と国家による規制の境界線をどこに引くかは、法哲学における最大の争点の一つである。特に性という極めて個人的かつ倫理的色彩の強い領域において、国家が刑罰権を行使して介入することの是非は、単なる公衆道徳の維持を超えた思想的な問いを内包している。

自由主義の核心としての「愚行権」

近代自由主義の父、ジョン・ステュアート・ミルJohn Stuart Millは著書『自由論』On Libertyにおいて、「文明社会の構成員に対して、その意に反して権力を行使することが正当化されるのは、他人に危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる」という危害の原理harm principleを確立した。この原理から導き出されるのが、たとい周囲から愚かとか不道徳と看做される行為であっても、それが自己の範囲内に留まる限り、国家は干渉すべきではないという「愚行権」の概念である。

売買春をこのフレームワークに当てはめた場合、成人同士の自由意志に基づく合意と金銭の授受は、当事者間の私的な取引に限定される。第三者に対する物理的財産的な直接の危害が発生しない限り、これを刑事罰の対象とすることは、個人の自己決定権に対する不当な侵害である。もし道徳的に卑しいからという理由で処罰を正当化するならば、それは国家が特定の価値観を市民に強制する「道徳のパターナリズム」へと変質し、自由主義社会の根幹を揺るがすことになりかねない。

「高貴な実験」の教訓

歴史は、個人の強い欲望が伴う行為を法で一律に禁止することの不可能性を証明している。その最たる例が、20世紀初頭のアメリカにおける禁酒法Prohibitionの失敗である。

「高貴な実験The Noble Experiment」とも言われ、アルコールによる健康被害と社会悪の根絶を掲げたこの法律は、国民の飲む自由という「愚行権」を剥奪したが、その結果もたらされたのは、消費の停止ではなく、供給ルートの地下潜行であった。密造酒の流通はマフィアの巨大な資金源となり、組織犯罪を増大させ、法の執行機関に対する腐敗を蔓延させた。

禁酒法時代のニュー・ヨーク、下水道に投棄される密造酒
禁酒法時代のニュー・ヨーク、下水道に投棄される密造酒

売買春に関しても同様の論理が成立する。全面的な処罰化は、性産業を法の手が届かない地下へと追いやる。その結果、従事者は暴力や搾取から保護されなくなり、感染症の蔓延や人身売買といった真の危害が助長されるというパラドックスが生ずる。つまり、売買春の処罰は、社会を浄化するどころか、監視の目を奪い、被害を深刻化させる悪手にほかならない。

ショーペンハウアーによる「社会的犠牲」の告発

売買春を論ずる際、避けて通れないのがその構造的な側面である。19世紀の哲学者ショーペンハウアーは、著書『余録と補遺』Parerga und Paralipomenaの中で、公娼を「一夫一婦制の祭壇にささげられた人身御供」11. アルトゥール・ショーペンハウアー(秋山英夫訳)「女について」(『余録と補遺』第27章)、『ショーペンハウアー全集14』、白水社、2004年、263頁。と表現した。彼の洞察によれば、社会は表向き「純潔な結婚制度」という道徳を称揚しながら、その制度が収容しきれない人間の生々しい欲求を処理するための捌け口として売買春を必要としてきた。

この視点に立つとき、売買春のみを一方的に処罰することの欺瞞性が浮き彫りになる。社会制度の矛盾や経済的困窮といった構造的要因が、特定の個人を性的サービスの提供者という立場へ追い込んでいる側面があるにもかかわらず、その行為自体を「犯罪」として断罪するのは、自らの制度が生んだ犠牲者をさらに法的に踏みにじるダブル・スタンダードである。処罰すべきは売買春という行為ではなく、そこに至るまでの強制や貧困といった外的な危害要因であるべきだ。

非犯罪化と「真の保護」への転換

売買春を処罰対象から外すことは、決して売買春を推奨することを意味しない。むしろ、それは問題を刑事司法の領域から社会政策と公衆衛生の領域へと引き出すための戦略的な転換である。

ドイツやオランダで見られるような管理モデルや、ニュー・ジーランドのような完全非犯罪化モデルは、従事者に法的権利を認め、労働環境の改善や定期的な検診、さらには脱却を希望する者への法的経済的支援を可能にする。危害の原理を厳格に適用し、児童ポルノ、人身売買、強制的な搾取といった明確な他者への危害にのみ刑罰権を集中させることで、より実効的な社会防衛が実現する。

生活苦から売買春を選ぶのは「強制された選択」であり、自由意志による合意とは呼べないから、弱者保護のために禁止すべきだという意見があるだろうが、解決すべきは貧困という社会的瑕疵であり、その結果として生じた売買春という生存手段を罪に問うのは、原因と結果を履き違えている。真の保護とは、処罰ではなく、他の選択肢を提示することである。

また、今回の法務省の検討会では、買い手に対する処罰が焦点となっているが、それは結局のところ、取引全体を犯罪化することと同じ副作用を生む。取引はより密室化し、短時間での交渉を強いられることで、売り手は相手を精査する機会を失うだろう。そして、取引が違法である限り、売り手は依然として社会的な不名誉(スティグマ)を背負わされる。結局、刑事罰という脅しがある限り、従事者が司法に助けを求めるハードルは高いまま維持されてしまうことにもなりかねない。

売買春を禁止する社会は、その裏で解消されない欲求がもたらす別の危害に目をつぶっている。存在を否定しつつ裏で利用する偽善よりも、危害の原理に基づき、事実として存在する産業を管理下に置く方が、社会全体の苦痛の総量は減少する。人間が「欲求の奴隷」であるという現実を直視し、それを法で無理やり抑圧するのではなく、他者への侵害が起きないよう「交通整理」することこそが、理性的国家の役割である。

自律した個人と誠実な社会に向けて

結論として、売買春を処罰すべきではないとする根拠は、以下の三点に集約される。第一に、自由主義社会において、自己の身体に関する決定は最大限尊重されるべきであり、他者への実害がない限りそれは「愚行権」の範囲内であること。第二に、刑事罰による強制的な抑圧はかえって社会悪を地下に潜伏させ、被害を拡大させること。そして第三に、社会の構造的矛盾が生んだ犠牲を個人の犯罪として処理する偽善を正し、誠実な社会対話を開始すべきであることである。

法は道徳の教師ではない。法は、個人の意志と意志が衝突し、他者を損なう瞬間を制止するためにのみ存在すべきである。売買春という複雑な事象に対し、短絡的な処罰という手段を棄却することこそが、多様性と個人の自律を重んずる成熟した自由主義社会への第一歩となる。

 

1. アルトゥール・ショーペンハウアー(秋山英夫訳)「女について」(『余録と補遺』第27章)、『ショーペンハウアー全集14』、白水社、2004年、263頁。

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