2020年1月1日

性的羞恥心の根源

それはそのまま原罪を表す

ルーカス・クラナッハ『智慧の樹』

「性を表通りに」と謳う秘具メーカーが巷にはあるが、いくら性から猥雑な印象を排除しようと試みても、それは無駄な努力である。というのも、生殖は例外なく情慾に突き動かされてなされるものであり、その本質上非道ともいえる側面が必然的に暴露されるからである。

仮に、創造主の存在を認めるとしよう。この創造主は、自分の心を満足させるためにこの世界を創り出し、全ては大変良かった1などと自画自賛していることからわかるように、この地上の生きとし生けるものは全て、この創造主の玩具として生まれさせられ、弄ばれているに過ぎない存在である。そう、サルトルが「人間は無用な受難である(L’homme est une passion inutile.)」と言ったように。

また、かの創造主は、「生めよ蕃殖ふえよ地に滿盈みてよ」2という意志を確実なものにするため、あらゆる生物の個体にひどく残忍な仕掛け、すなわち情慾を植え付けた。これによって、この世界がいかに苦悩に満ちようとも、ひとたび情慾が発動すれば、それぞれの個体は苦役を担う新たな客体の創出に参加させられてしまうことになる。それはちょうど、映画『続・猿の惑星』(Beneath the Planet of the Apes, 1970)で、ブレントとテイラーがミュータントの超能力に操られて、仲間同士で殺し合いをさせられる光景になぞらえることができよう。ユダヤ教の世界観はまさにその権化であり、ショーペンハウアーがこの宗教を「露骨な暴君的有神論(nackten, despotischen Theismus)3と呼んでいるのは興味深い。

もっとも、人間を除く他の生物はこのことには一切無頓着である。人間に特有で、他の一切の生物と峻別するものは何か。それこそが理性と呼ばれるものに外ならない。理性とは端的に言えば推論する能力である。理性によって、我々は過去を振り返ったり、未来を予測したりすることができるようになる。

つまり、情慾の作用自体ではなく、その作用を人間が自覚し得ることが、倫理上の問題を生ぜしめるのである。生まれてくる子が苦難を受けるであろうことは想像に難くないのに、それにも拘わらず情慾に身を差し出して生殖の営みをなす。情慾に駆られている間、人間は暫しそれに隷属するが、その後は理性の省察により、自ら創造主の策略に荷担してしまったことを悟る──性的羞恥心の核心はここにある。アダムとエバが禁断の果実を口にした後、無花果いちじくの葉で局部を隠すようになった話は、この点を寓意的に説明したものである。

禁断の果実こそはまさに理性の隠喩である。アダムとエバが自由な選択の結果として神への不従順を示し、それによって死に至るまでの苛酷な運命を決定づけられたことは、理性がその予測する能力により、この世の残忍性を認識して自然に対する叛逆の徴候を示すこと、そして死に対する恐怖への道を開くことをも含意するものである。

ここまで、創造主という仮の存在を持ち出して説明したが、信仰のあるなしや、あるいは創造主の存在証明が可能かどうかは、上述の健全性をいささかも妨げるものではない。誰がこの世界を準備したのかという問いと、この世界はどのような仕組みや法則に基づいているのかという問いとの間には、大した差異も隔たりもなく4、所詮は仕組みとか法則といったものを擬人化するかしないかの違いでしかないからである。

妊娠や出産自体がそれほど忌むべきことでないと看做されているのは、生まれ出る子に芽生える知性によって、生殖の負の側面がある程度中和されるからであろう5。一方で、避妊や同性愛が忌避されてきたのは、知性が発芽する可能性を捨象し、生殖そのものの残忍性を浮き彫りにするからと説明できる。実際、生殖と受胎との間には著しい乖離がある。人間だけでなく他の動物にも同性愛的行動が認められることに鑑みれば、もっともらしく筆者に思われるのは、性別を問わない性的接触が本能として編み出されたという仮説である。つまり、あらゆる生物の個体には、他の個体への性的指向が予め植え付けられていて、異性・同性間を問わず無数の性的接触が試みられるように仕組まれており、それらの中から一定数の新たな個体が生まれるようになっているという寸法である。この説に従えば、異性間であれ同性間であれ、性的指向は等しく同じ原理に依拠しているのだから、同性間のもののみを指弾するのは公平とはいえない。

むしろ、見方を変えれば、受胎を伴わない性行動は、快楽の満足がその個体の中で完結しているという点で、罪が軽いと言えなくもない。これに対して、情慾を満足させるだけでなく、一人の人間をこの世に送り出して、この世の生活をさせるというのは、倫理的に見れば極めて疑わしい振る舞いであるし、ましてや子供を産もうという熟慮の上でそうするのであれば、なおさら計画的殺人にも比肩し得る冷酷な所業だと非難されても仕方がない。したがって、生殖によって子供をもうけた者たちはすべからく、不自由のない生活をその子供に保障し、生存の苦痛を和らげてやるべきである。何者かによる陰謀に荷担した業への贖罪として、これは当然のことであり、我が子を搾取したり死なせたりする者は、二重で罪を犯しているから万死に値する。

要するに、来るべき子孫に初めから苦痛を味わわせないという観点からすれば、受胎を伴わない性行動のほうが罪は軽いし、知性によって事後的に救済の道が開かれるのを重視する観点からすれば、受胎を伴う性行動のほうが罪が軽いということになる。ただ、いずれにせよ、最初から生殖を断念する方が望ましいのは言うまでもない。

あたかも絶対善と言わんばかりに、子孫を残すのが生き物の本分だと主張するなら、その者はもはや人間である必要はない。性に対する忌避感は、我々をこの世に送り出した何者かに対する怒りとほとんど同義である。そしてそれは、理性を獲得した人間の宿命なのである。


1. 『創世記』1:31。
2. 『創世記』1:28。
3. アルトゥール・ショーペンハウアー(秋山英夫訳)「生きんとする意志の肯定と否定についての教説に対する補遺」(『パレルガ・ウント・パラリポーメナ』第14章)、『ショーペンハウアー全集』13、白水社、2004年、114頁。
4. 白石一文『この世の全部を敵に回して』、小学館、2008年、112頁。
5. ショーペンハウアー、前掲書、118頁。