日本の憲法学界には、長らく人権を最高価値に据える主流の東京学派と、憲法を国家という組織の基本法と捉える京都学派という二大潮流が存在してきた。前者は憲法を人権を保障するための聖典であると説き、後者は権力の濫用を防ぐための装置であると解する。

しかし、日本国憲法がその成立過程において英米法(特にアメリカ憲法)の強い影響を受けている事実を想起するならば、現在「通説」とされる人権先行型の解釈がいかに大陸法的な色彩を帯び、憲法本来の権力抑制機能を等閑視してきたかが浮き彫りになる。本稿では、英米法的な法の支配rule of lawの観点から主流派を批判し、二大学派の対立構造を論ずる。

主流派の憲法観とその大陸法的淵源

芦部信喜に代表される主流派の体系は、憲法典の解釈において、基本的人権を国家に先立つ普遍的価値として頂点に置く。この体系において、国会、内閣、裁判所といった統治機構は人権を実現するための手段としての地位に甘んずる。

この「価値のピラミッド」を構築する手法は、実は極めて大陸法的、とりわけドイツ公法学的な法実証主義とその反省としての「価値の秩序Werteordnung」の理論に基づいている。主流派は、戦前の「法律の留保」による人権侵害への反省から、人権を憲法に書き込まれた不動の目的へと昇華させた。しかし、そこには「目的としての理念を定めれば、現実はそれに従う」という、観念論的な思考様式が色濃く反映されている。英米法のリアリズムから見れば、これは結果としての自由を、統治の枠組みという原因よりも先に論ずるという、論理的な倒錯を含んでいると言わざるを得ない。

英米法的立憲主義の本質──装置としての憲法

対照的に、英米法における憲法constitutional lawの伝統は、徹底して統治機構の法としての性格を帯びている。

アメリカ憲法の草案が作成された際、当初そこには人権保障規定である権利章典Bill of Rightsは含まれていなかった。これは創設者たちが、憲法の役割はあくまで権力の範囲を画定することenumerated powersにあり、権力機構が適切に相互牽制checks and balancesしていれば、自ずと個人の自由は確保されると考えていたからである。つまり、英米法において自由とは、憲法が与える恩恵・・ではなく、権力が法によって適切に分割抑制された結果・・として生じる空間のことである。

英米法的な法の支配は、抽象的な人権理念を振りかざすのではなく、「誰が」「どのような手続きで」決定を下すかという適正手続due processを重視する。ここでの憲法は、政治という荒ぶる力を封じ込めるための器(コンテナ)であり、その器の設計(統治機構論)こそが法の核心となる。主流派憲法学に批判的な大石眞らが統治機構論を重視するのは、憲法を国家の組織法として客観的に捉える英米法的なリアリズムの伝統を、日本憲法学において正当に再構築しようとする試みと評価できる。

筆者が学部時代に使用していた、大石による憲法学の教科書11. 大石眞『日本国憲法』、放送大学教育振興会、2005年。。統治機構に関する章が前半に置かれている。芦部の著書が人権保障の章を前置するのとは対照的である。
主流派への批判──「人権インフレ」と「統治の空洞化」

英米法的視点から主流派の人権先行型モデルを批判すると、以下の二つの構造的欠陥が指摘できる。

主流派の議論では、あらゆる政治的課題が人権問題へと還元される傾向がある。しかし、憲法を人権保障の道具と定義しすぎると、民主的な政治プロセス、つまり統治機構の運用が、あらかじめ設定された「正しい人権解釈」を確認するだけの作業に成り下がってしまう。これは、英米法が重んずる政治による自治の否定にも繫がりかねない。

人権の章立てを先行させる主流派の教科書は、統治機構を人権を侵害しないための消極的な存在として描く。その結果として、日本の憲法学界は、選挙制度の設計、議会運営のルール、内閣の意思決定プロセスといった、統治の質を向上させるための実証的制度的な議論を、政治学や行政学に明け渡してきた。 憲法を統治機構に関する法規範と捉え直すことは、抽象的な人権論に逃げ込むのではなく、現代における権力の正統性やガバナンスの有効性という、憲法学が本来向き合うべきハードな課題に立ち戻ることを意味する。

二大学派の対立が示唆するもの

主流派が憲法を個人の自由を謳う宣言書と考えるのに対し、京都学派は国家を動かすための仕様書であると考える傾向がある。

大陸法的アプローチを採る主流派は、価値を重視し、憲法を人権訴訟のための武器として活用することに長けている。しかし、国家の主体的な統治能力や制度の連続性については冷淡な面がある。

一方、英米法的アプローチを採る京都学派は、組織と手続を重視し、憲法を国家運営のルールとして安定させることに重きを置く。人権を抽象的な価値ではなく、制度的限界の中での権利として実証的に捉えようとする。

日本国憲法は、条文上は基本的人権の尊重を高く掲げているが、その運用の仕組みである二院制、議院内閣制、違憲審査権などは、紛れもなく英米的な権力制禦の知恵の集積である。主流派の解釈が、この仕組みを理念の従属物に置くことで、日本の立憲主義はどこか腰の据わらないものになっていないか。

おわりに

英米法の伝統に照らせば、自由は権力の沈黙によって生まれるのではなく、権力の法的な組織化によって守られる。憲法学の目的が真に自由の守護にあるならば、我々は「何が人権か」を議論するのと同等以上に、「いかなる統治が正当か」を議論しなければならない。

芦部憲法学に代表される主流派が果たした、戦後の人権意識の普及という功績はあろうが、成熟した国家としての日本に必要なのは、憲法を崇高な理想として崇めることではなく、それを現実に機能する統治のルールとして、冷静かつ実証的に研磨し続ける姿勢である。

京都学派が重視する統治機構論は、まさにそのための基盤を提供するものである。それは、憲法を「空上の理念」から「地上の法」へと引き戻し、英米法的な立憲主義の原点である制度による権力抑制を再発見するための、不可避な転換点なのである。