彼らに表現者としての覚悟はあったか
予想通りの醜態ぶりではあったが、銃撃に遭った諷刺画雑誌『シャルリー・エブド』(Charlie Hebdo)の漫画家の一人、レナルド・ルジエ(Renald Luzier)が「実行犯はユーモアがない」11. Dan Bilefsky, ‘Charlie Hebdo’s Defiant Muhammad Cover Fuels Debate on Free Speech’, The New York Times, 13 January 2015.だとか、(『そうだ、だがしかし……』などと)「表現の自由に例外を設けるべきでない」22. Elaine Ganley & Jamey Keaten (The Associated Press), ‘New issue of Charlie Hebdo sells out quickly’, The New York Times, 14 January 2015.とはよくも言えたものだ。前回述べた通り、彼らに対する弁護の余地は全くない。理由は、あの下品なインクの塗たくりのためではなく、彼ら自身に自由に対する責任の意識が欠如していたためである。その分厚い面の皮と図太い神経には開いた口が塞がらぬ思いだが、彼らを増長させているのは、いうまでもなく「Je suis Charlie(私はシャルリー)」のプラカードを掲げて通りを練り歩くパリ市民である。
西洋諸国の首脳陣が『シャルリー・エブド』の肩を持つのは致し方ない。それはおそらく政治家という彼らの苦しい立場に由来するものであろう。だが、大勢の大衆が逆上せ上がった馬鹿面で、表現の自由の擁護を唱えさえすれば、何か大変な真理でも語ったかのように振る舞うのを見るに及んで、筆者は嘔吐を催さざるを得なかったのだ。彼らの理屈は至って単純明快である。すなわち、「最大の悪」と看做されている殺人と、「最大の権利」と看做されている表現の自由とを秤にかけ、何も考えずほぼ機械的に、前者を全面的に否定し、後者を全面的に支持すると表明しているだけなのである。『シャルリー・エブド』の諷刺画に批判的な人々とて、多数派を占める大衆からの非難を躱す目的上、「だからといってテロは許されるものではない」という一文を付け加えざるを得ない。それゆえ、大衆は自らの言動をほんの僅かでも疑ってみるということが、ただの一度もないのである。
その「殺人は最大の悪」という前提が誤っていると言いたいのである。このブログでは本当のことしか書かないから、いかなる批判が生じようとも、筆者は次のように言わなければならない。ルジエが「表現の自由に例外を設けるべきでない」と言ったのは確かに正しかった。それに従って言えば、「殺人を犯す自由にも例外を設けるべきではない」というのもまた真なのである。くれぐれも断っておくが、筆者は『シャルリー・エブド』の諷刺画そのものに対して、この場で公然と文句をつけたり禁じたりするつもりはない。他人が嫌悪感を抱こうが、侮辱と捉えられようが、囂々たる非難が起ころうが、彼ら自身が本当に描きたいのであれば、思う存分好きなだけ描くがよい。その代わり、いや、だからこそ、もし受け手が敬虔な信仰心から預言者の敵討ちを望んだならば、そしてそれが極刑や世間からの白眼視や同志からの非難を含む一切の不利益を受け容れる覚悟に基づくものであればあるほど、その者たちの殺生も認めざるを得ない。否、「認めざるを得ない」のではなく、「迷わずそうするべきだ」とさえ筆者は言うだろう。そしてこれは、個々の人間がそれぞれ固有の意志を有している以上、決して避けることのできない事態なのだ。
殺人を認めるなど信じられないと言うのなら、次の問いに答えてもらいたい。なぜ未成年者の殺人に対する刑罰は総じて軽いのか。なぜ殺人を犯した瘋癲の者が無罪放免になるのか。あるいは、いかに残虐なやり方で人を殺したとしても、極刑の方法がなぜあれほどまでに穏便なのか。
それは刑罰というものの目的が復讐の代行ではなく、専ら行為の主に自らの責任を自覚させるという点にあるからだ。だからこそ、殺人を犯した者に対して真っ先に問われるのは責任能力なのである。刑法の条文とて、殺人を禁止するとは一言も書かれていない。殺人を犯した者にはこれこれの刑罰を与える、とあるだけである。読み替えれば、殺人を許可する条件として相応の刑罰が設定されているのだとも言うことができる。奇異に聞こえるかもしれないが、この世の中は一定の条件の下、殺人が許されている。殺人を容認してまで、我々は自由を求めたのである。ゆえに、犯罪の数が尽きることはあり得ないし、戦争のない世界などあろうはずがないのである。もし仮に、犯罪や戦争の根絶が実現したとしたら、どういう世の中になるであろうか。そのときにはおそらく我々は一切の自由を剥奪され、いかなる意志も有さない単なる自動人形と化しているだろう。悪と自由は表裏一体である。悪こそ自由の存在証明なのである。
ところで、一見乱暴で傲岸不遜に思える上の主張に対して、軽蔑が入り交じった一種の不快な表情を示す読者の顔が筆者には浮かんできそうである。だが筆者の主張は、他者を一方的に断罪する者の言葉や、あるいは多数派への配慮の言葉を並べながら大勢への異議を唱えると自称するいかなる論者の言葉よりも、比べものにならないほど穏健である。なぜというに、吟味を欠いた主張というものは全て、真理を捩じ曲げ、当人の品位を落とし、蛮行の連鎖を招くからだ。今回の件でも、『シャルリー・エブド』とそれを支持するパリ市民たちは、善悪に関する誤った認識のために、自分たちに都合のいい自由しか認めていない。それでいて完全なる無謬主義に陥っており、自分たちが他者に与える害悪については全くの無頓着だ。かようなマジョリティーの横暴を筆者はこれまで何度も目のあたりにしてきた。その無思慮と無分別と無神経に、筆者は幾度の憤激を覚えたことか。そして、「Ineptire est juris gentium(愚は万民の権利)」というラテン語の警句に、幾度の賛同を余儀なくさせられてきたことか。だが思慮ある者はこの警句に構っていないで、犠牲を恐れずに声を上げなければならぬ。さもなければ、彼らは反省というものを知らぬゆえ、この先いかなる悪事にも怯まないことになる。
何はともあれ、自由な空間とはかくも荒々しいものなのである。我々が悪と共に自由を享受している以上、危険を避けながら言論というメガフォンをとることは許されない。身の安全と引き替えに自分の言葉を取り下げるのが惜しいのであれば、ソクラテスのように迫害を受けながらも自身の正当性を訴え続ける道を選ぶ外はない。その覚悟を固めた者たちの語る言葉だけが、読むに値する。
さればこそ、『シャルリー・エブド』の者たちにも同様の覚悟を問おうではないか。
Dessinerez-vous encore, même si Marianne ne vous protège pas?
(それでもあなたがたは描きますか、たとえマリアンヌの加護がなかろうとも。)
1. Dan Bilefsky, ‘Charlie Hebdo’s Defiant Muhammad Cover Fuels Debate on Free Speech’, The New York Times, 13 January 2015.
2. Elaine Ganley & Jamey Keaten (The Associated Press), ‘New issue of Charlie Hebdo sells out quickly’, The New York Times, 14 January 2015.