2014年7月15日

管理通貨制について

意外と脆弱な貨幣の価値


管理通貨制は、現代人が生み出した一種の錬金術である。1枚刷り上がるのにたかだか20円くらいしかかからない紙切れも、1万円の価値を有するものとして立派に通用する。だが、本来紙幣というものは、金や銀などの貴金属との交換券に過ぎなかった。つまり、交換対象としての財貨によってのみ、紙幣はその価値を保証されていたわけだ。

産業が多様化し、人口が増加するにつれて、金本位制の下では売買に必要なだけの貨幣を賄えないことが次第にわかってくると、金との兌換は停止され、各国の政府は濫発によるインフレーションに留意しさえすれば貨幣の流通量を自由に制禦できるようになった。そういうわけで、管理通貨制は資本主義社会の発達による一つの帰結であると見ることができる。

しかし、人類の生活が等価交換で成り立っている以上、希少性のある財貨の価値の裏付けを貨幣から切り離すということは、地球上におけるあらゆる資源の賦存状況を全く度外視するということに外ならないのである。食物連鎖の原理に見る通り、餌を食い尽くした生物は滅びなくてはならない、というのが自然界の掟である。けれども「国家の信用」なる虚構によって発行される貨幣は、この冷厳たる事実を覆い隠し、欲しい物はいつでもいくらでも調達できるかのような錯覚を我々に与える。かくて、人々の欲望は全く歯止めを掛けられることなく促進され、そのために資源は浪費されるがままにまかされ、今やこの惑星の収容能力から見れば甚だ不釣り合いなほどたくさんの人間が現れるという有り様だ。だが、いくら技術が発達し、たくさんの品物が造られ、人間の寿命が延びようとも、上述の自然の掟が克服されたわけではない。したがって、欲望の赴くままに、やがて行き着くところまで行った暁には、「無用の偶像と無用の品物、そして無用の生命を排除すべし」という自然からの審判が下されよう。

ところで、管理通貨制を提唱したジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)は、金本位制を「未開社会の遺物」と呼んで軽蔑していた──だが、自由な管理通貨制の下で生み出された品物やサービスの値打ちはどうか。そのほとんどが日の目を見せずにおくべきであったものばかりではないか。

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