2014年2月10日

専門学者のあざとさ

井の中の蛙大海を知らず


学問が広汎に渡り、その領域が極度に細分化された結果として、学者達は狭い垣の中でも更に狭い範囲のことしかものを知らなくなった。彼らが心血を注いでいる研究題目も、専門外の人間からしてみれば、ほとんど取るに足らないものだ。どうも筆者は、学術誌の目録を前にすると往々、総じてつまらないという印象しか持ち得ず、その中のどれか一つでも試しに読んでみようという気になれないのである。

内容が深みのない漠然としたものにならないよう、研究の題目を絞り込む必要はあるにしても、大多数の学者はその限定された範囲を事細かに調べ上げてそれで終わりである。その内容からいくらか専門外の人にもためになる教えを引き出そうと試みる気さえ、彼らには無い。学問には新規性が求められると言うが、彼らにとっての新規性というのは、独自の思想や見識のことではなく、ただ単に新しい事実の発見を指すに過ぎない。その上、これといった見識も無く、ほんの一部分の知識しか有していないのに、人類の知恵という知恵は何でも心得ているかのように知ったかぶりをする厚かましさが加わってくる。筆者は以前、ある大学の政治学の教授が「学問で重要なのは『いつ起きるか』という予測可能性なのだから、特殊個別的な事柄を検討することが欠かせないのだ」と話すのを聞いて、呆れざるを得なかったのだ。彼は、物の用に立たぬ研究を正当化するために、学問の予測可能性の意味を曲解していたのである(学問における予測可能性についての筆者の見解は以前の記事で述べておいたから、そちらを参照されたい)。

このような専門学者の有り様を、オルテガは「科学の火夫」といういかにも適切な言葉で表現している。だいたい個別的な事象をつぶさに調べ上げたところで、その対象は無数にあるのだから、人類が「ラプラスの悪魔(Laplace’s demon)」になることなどあり得ない。仮にそのような知性が現れたとしても、それは人間の認識の限界に及んだだけのことであって、世界全体を知り尽くしたことにはならない。もっと本当のことを言えば、学者達自身、人間の知性が何から何まで知り尽くすことなどあり得ないと、意識せずとも気付いているのである。というのも、彼らが「森羅万象を知り尽くそう」という目標を設けるのは、腹の底に「森羅万象を知り尽くせるわけがない」という確信があってこそだ。つまり彼らは、「お喋りの種が尽きることはない」という安心感から、学問を弄び、学問を自らの物好きな趣味に対する供物にしているのである。学者達が真理の究明と学問の発展を大問題と捉えているように見えるのは、単に見せ掛けのことなのだ。彼らがいかに勿体ぶった顔付きをしようとも、要するに専門学者がやる仕事というのは、人類の知性の向上のためのものではなく、せいぜい「自分の寿命が来るまでの丁度良い暇潰し」に過ぎないのである。将来における不確実を無くすために学問が存在しているのだと本気で考えている者は、次の標語をとくと心に留め、自らの戒めとするがよかろう。

Ignoramus et ignorabimus.
(我々は知らない。そして知ることはないだろう)