徴収した教材費や模試受験料などを着服していた大阪桐蔭中学校・高等学校。筆者はこの高校の9年前の卒業生である。自らが在籍していた時のことなど正直筆者には何の思い入れもないので、今まで想起しようという気も起こらなかったのだが、巷で母校が話題になっている時分に、改めてここで当時を振り返ってみることは、世の中の実像を示す上でもあながち無益ではなかろうと思う。

大阪桐蔭は階級社会である。生徒会は存在しない。すなわち、生徒に校内の自治権は認められておらず、生徒は完全に教員の被治者である。

生徒は成績によって序列化され、学年が上がる度にクラス替えが行われる。クラス替えは原則として、III類(当時は体育系のみ)を除き、中学からの在籍組と高校からの編入組との区別なしで行われるが、筆者の学年では中学から高校卒業までクラス替えの対象外とされていた学級が1つだけあり、その学級は東京大学や京都大学への進学を目指すエリート集団と目されていた。中学からの固定学級と成績上位学級(I類及びII類の一部)には、予備校から招聘された講師陣が授業を受け持つ。だが、筆者が属していた成績中位・下位学級(その他のII類)の指導に外部講師が当たることはなく、進学校としての恩恵に与ることはない。「習熟度別授業」と言うと聞こえは良いが、ビジネスの言葉を借りれば「選択と集中」、「仕分け」と言った方が実態に近い。建学の精神にある「偉大なる平凡人たれ」1というのは全くの噓っぱちである。

階級は教員の中にも存在する。不正会計を主導したとされる前学校長の森山信一が全てを決める、森山に逆らえる者はいない、と伝えられている2のは噓ではないだろう。森山に不満をもつ教師は実際にいたし、彼らが授業中によく冗談交じりに「サダム・モリヤマ」などと言って森山に対する愚痴をこぼしていたのを筆者は今でも覚えている。また森山に限らず、一般的に創立時からいる教員は他の教員よりも力を有していたように見受けられた。例えば、職員室では一般の教員の机は互いに向かい合わせで配置されているが、上の教員の机は広めで、且つ課長席よろしく1人1台ずつ独立して置かれていた。

大阪桐蔭は外部へのイメージ作りにも余念がない。学校の広告には「文武両道」「高い大学合格実績」「輝かしいクラブ成績」などと、ありとあらゆる美辞麗句が踊る。当時の学校長だった森山は、様々な新聞や雑誌へ寄稿するなど露出も多かった。野球部が甲子園出場となれば、運動場に生徒を集めて作った人文字を新聞社のヘリコプターに空撮させ、またアリラン祭でお目にかかるようなマスゲームを、入念なリハーサルを経て、球場のアルプススタンドで披露したものだ。筆者が高校3年の時に竣工した、あの悪趣味な装飾を施された新校舎(本館)に至っては、その姿に直ちに売女ばいたの厚化粧を見て取ることができる。

ところで、大阪桐蔭に限ったことではないが、野球部には監督から勧誘されて入学した者が少なからずいる3。また、件の裏金は成績優秀な生徒を獲得するための塾関係者への接待に使われていた疑いがある、との報道もある4。筆者が在籍していた頃、雲の上の存在だったエリートクラスの生徒たちも、塾を通じた勧誘で入学したのであろうか。裏金の有無は別にして、高校球児だけでなく学業成績の優秀な生徒も学校の勧誘活動の賜物なのだとしたら、名門校というこの学校の評判はまさに羊頭狗肉の代物だったということになる。なぜなら、進学率やスポーツ、芸術で評判となっているこの学校の実績は、何ら学校側の教育成果によるものではなく、元々素質のある選ばれた少数の者たちのみによって作り上げられたもので、彼らの才能は学校の売名に利用されていたことになるからだ。そして、今回の裏金疑惑を目の当たりにして、筆者を含めたその他の生徒とその親はその見せ掛けのイメージに釣られて金を貢ぐ都合の良い愚かな凡人だったのだということを、改めて思い知らされたような次第だった。

筆者は衷心から読者諸賢に警告する。周囲から持て囃されているような者ほど、実際に付き合う時は用心すべきである。およそ腐敗した人物や組織ほど頗る外面そとづらが良いとしたものだ。彼らは、巧言令色の宣伝文句でもって餌を放っておき、そこに誰か引っ掛かっていはしないかといつでも待ち構えており、それで金銭を得られれば万事オーケーとしている。筆者が大学を卒業した後初めて入社したある食品会社も、短期間で急成長を遂げたとメディアから絶讃されていた。だが、「安心・安全な食材を届ける」という経営理念とは裏腹に、そこでは違法行為が横行していたのである(こちらもいずれは白日の下に晒されるであろうから、それまでは敢えて名は伏せておくことにしよう。行き着くところまで行って、その後はもう誰も騙されないようになればいい)。むしろ、外観は人を欺くということ、そして「信義などほとんど気にかけず、奸策をめぐらし〔……〕た君主のほうが、むしろ大きな事業(戦争)をやり遂げている」5(括弧内原著)というマキャベリの警句を、終始脳裏に刻んでおくがよい。

人間の集団にそうそう良いことが多く言えるものではない、というのが実社会に身を置いてきた筆者の偽らざる実感である。どのような集団と関わりをもつにせよ、その結果は全て自分に降りかかってくるのであるから、常に自分の判断で行動することを心がけ、相手に依存しないようにし、せめて不当な責任を負わされることのないようにしなければならない。かつては他力本願だった筆者も、時を経るにつれ、いかに政治や社会が変化しようとも、結局は何事も独力で対処するしかない、という確信へと次第に傾いてきたものである。

そして母校の醜聞に直面した今、筆者はその確信の度合いをますます強めているのである。