詭弁というものがあるように、論理というものは一般に思われているほどには信用できず、たいていは歪められているものである。その誤謬に陥らないようにするためには、人間の思考様式(カント哲学で言えばア・プリオリな直観能力)に忠実に従ってものを考える習慣をつけなければならない。数学はその習慣をつけるための良い練習になる。

中でも、函数や微積分を扱う解析学は特に有効だ。 例えば、低次の方程式なら手計算でも解ける。ただ、多少面倒でも函数のグラフを描いてみることで、計算の誤りに気付くことができる。要するに、計算で使われている論理の真偽を、グラフという視覚によって確かめることができるというわけだ。この論理に先立つ直観の情報を侮ってはいけない。

論理の整合性を常に確かめる習慣がつけば、流言に惑わされることなく、自分の頭で考え、判断することができるようになる。だから義務教育の教科は、誤謬の起こり得ぬ数学と国語に限定してもよいくらいだと筆者は考えている。その他の教科は、どれほどの偏見や妄念に満ちているかわかったものではなく、小さい頃から触れさせていると所謂先入見となって、将来自分でものを考える段階において大きな障害となるからだ。アインシュタインも言っているではないか──「教育とは学校で習ったことを全て忘れた後に残るものだ」と。