翻訳には発想の転換が求められる
言語が異なれば、語彙、文法、構文、表現、更には言語を司る側の思考に至るまで、全て違ってくる。そのため、ある言語を別の言語に翻訳する際、元の言語の状態をそっくりそのまま再現するといったことはできなくなる。
例えば、英語の「A powerful typhoon left 10 people dead」は、日本語では「勢力の強い颱風によって10人が死亡した」と訳すのが妥当である。これを原文の示す通りに受けとめて、「強い颱風は10人を死んだ状態にしていった」とするわけにはいかない。このような無生物主語を使用した構文は英語ではよく見られるが、これは英語話者が「物事には必ず原因がある」と考えるからである。
つまり、各々の言語話者はそれぞれ固有の思考様式を持っているわけであるから、翻訳の際は訳出する言語を使う人に馴染みのある表現を選ぶべきである。したがって、翻訳とはいっても、その実態はほとんど類似した表現への言い換え・置き換えに近い。置き換えるということは、もう原文の意味から幾分かは離れてしまっているというわけだ。よって、原文の意図を正確に表したいからといって一語ずつ一句ずつ訳していくというやり方は、中学校で習う英語のような初級レベルの文章ならいざ知らず、実務や文学作品などで使う文章では通用しない。そんなことをすれば、訳出した文は逆にほとんど意味をなさなくなってしまうから、角を矯めて牛を殺すようなものだ。外国の企業が作った製品の説明書とか、あるいは岩波文庫でさえ時折見掛ける、あの何とも不細工で読むに堪えない日本語訳は、細部を忠実に再現しようとして全体の意味を損なってしまった結果なのである。翻訳がうまくいかないという場面に直面するのは、自分の語学力の欠如というよりは、言語間の想定以上の隔絶に由来する場合が多い。ある言語特有の表現に直接相当する言い回しが別の言語には見当たらないという場合も珍しくないのだから、細かい字句まで再現しなければ正確さを損なうのではないかという心配は無用で、むしろ原文をすっかり覆してしまうだけの大胆さが求められる。
翻って上の事情から鑑みれば、いかに高度な翻訳の技術を以てしても、訳文から筆者の意図を正確に読み取ろうとするのには自ずと限界があることは明白である。筆者の思考により近づきたければ、原文に当たらなければならないのは言うまでもない。