2013年12月19日

愛国心はフィクションである

「悠久の歴史」は本当にあるのか


近頃、「愛国心」なるものが再びやかましく言い出されるようになった。政府が軍事政策に「愛国心」をお題目にし、少なからぬ人々が滑稽にもその尻馬に乗っているが、そもそも「愛する対象としての国」はそんなに由緒あるものなのか。

国民意識の起源

確かに、伝説の時期まで含めれば、日本という国が生まれてからもう既に2500年以上経つらしい。だが、人々が自らを「日本人」と自覚し始めたのは、今から数えて1世紀半ほど前のことに過ぎない。というのも、江戸時代の人々は自分のことを、せいぜいどこかの藩の人間だというふうに捉えていたように、近代以前の人々は自らを、生まれ育った土地に属している者、というくらいにしか考えていなかったからである。

中世までの西欧社会でも、上と事情は異ならない。その西欧で民族意識が鼓舞され始めたのはおよそナポレオンの頃からで、これはちょうど世俗化が進行していた時期と符合する。衰退する教会権力に代わり、西欧社会で支配的となった主権国家は、他国との競争下で、いかに国家への帰属意識を人々に植え付けて求心力を確保するか、という課題に迫られたのである。

国家の権力者達は、民族を元に国民意識の創出を図った。その手段は、兵役、学校、言語、活字など様々である。とりわけ、ベネディクト・アンダーソンは『想像の共同体』(Imagined Communities, 1983)の中で、(ラテン語に代わる)ドイツ語やフランス語といった「国語」と、その「国語」で書かれた新聞などの出版ジャーナリズムを挙げている。同じ言語と新聞に書かれた日付とのおかげで、それまでてんでんばらばらに暮らしていた個々人の間に一体感が生まれ、「国民」という観念が出来上がった、というわけである。教会権力というものが無かった日本ではやや事情が異なるが、欧米列強に対抗するという点で、明治期の富国強兵政策もほぼ同等のものと見て差し支えないだろう。

要するに、国民国家(nation state)、つまり「愛する対象としての国」というものは、人々を支配する目的で権力者達がこしらえた蜃気楼なのである。

国家になびく本当の理由

以上の観点からすれば、フィクションに基づく国家を愛するというのは、偶像を崇拝するのと全く等しく馬鹿馬鹿しいことのように思われる。それにしても、愛国心を振り回す者が未だに後を絶たないのは一体なぜか。その理由を知りたければ、試しに彼らから日本人という属性を取り払ってみるがいい。個人として何一つ見るべきものが無いとわかるに違いない。無論彼ら自身にしてみれば、自国には悠久の歴史があると信じていることだろう。だが事実はそうではなくて、彼らには特技だとか、非凡な才能だとか、独自の思想だとか、要するにこれといった個性がないために、惨めにも今日の社会の中で一番幅を利かせている国家にすがりつくことで、自らの存在意義を見出そうとしているだけのことなのである。

彼らにとって、自国にある要素は全て「善いこと」である。例えば、民族的な誇りを衒う日本人は、とかく資本主義を擁護するものだが、本当の意味で資本主義を信奉しているわけではない。その理由はただ一つ、たまたま自分の属する国が資本主義だから、ということに尽きるのである。資本主義を擁護する理由を聞くと、「共産主義よりはましだから」などと頓珍漢なことを言うが、仮に彼らが中国人だったら、諸手を挙げて共産主義に賛成するはずなのだ。

インターネット上では、日本や中国、韓国、台湾などの人々の特徴を比較して「民度が高い、低い」と評しているのをよく見かける。だが、それらがいかに浅ましいものであるかは、以下の警句が示す通りである。

民族性は集団に関する表現であるから、正直な批評をくだせば、そうそう良いことが多く言えるものではない。むしろ、人間的な愚劣さや不合理や弱点が国が変るごとに手を変え品を変えて現われるだけのことで、この国ごとに変った姿をこそ民族性とはいうのである。……すべての民族が互いに嘲笑しあっているが、どれにも言い分があるのだ。11. アルトゥール・ショーペンハウアー(橋本文夫訳)『幸福について──人生論』(新潮文庫)、新潮社、95―96頁。


1. アルトゥール・ショーペンハウアー(橋本文夫訳)『幸福について──人生論』(新潮文庫)、新潮社、95―96頁。

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