この国で、いよいよ厚かましく幅を利かせるようになった卑俗さの一種として、筆者が槍玉に挙げざるを得ないのは、この時期に全国津々浦々で恒例となっている忘年会である。というのも、この下品な宴こそは、人間の愚劣さを見事にあぶり出してくれている例証だからだ。

アルコールへの耐性が先天的なものだということがわかっているのに、未だに「俺の酒が飲めないのか」とか言う奴がいるらしい。別に下戸でなくとも酒が好きでなければ、飲まなければならない義理など無いのだ。それなのに、自分の健康よりも、無責任極まりない相手の機嫌を優先させ、無理に飲んで酔い潰れるなど、これほど馬鹿げた話があろうか。

忘年会で「ためになる話を聞ける」「人の違う一面が見られる」などと嘯いて笑わせるでない。忘年会で交わす話といえば、のぼせ上がった中年どもの鬱陶しい説教話か、情欲に近い滅茶苦茶な会話ということに相場が決まっているではないか。だいたい、官能的な享楽にしか真剣になれない連中が集う所では、健全な常識は引っ込んでしまうのだから、真正直に相手にしていたら時間の無駄を悔いるだけ、だから「奴隷とおどけてみろ。すぐに尻を見せつけられるぞ」(アラビアの諺)ということになりかねないのだ。

最も質の悪いのが宴会芸である。誰も実際は面白くもなんともないはずだが、恐ろしいことに、「こういう場ではそういうことをやるものだ、そうやって盛り上がるものだ」という偏見が人々の頭に刷り込まれているのである。特にどの会社の忘年会でも、若い社員がこれをやらされるのがしきたりとなっていて、彼らもその声なき声を内面化し、やりたくもない低俗な茶番を演じさせられている。こうして自己は押し殺され、卑屈なまでの従順な人格が出来上がるのである。つまり宴会芸というのは、大勢に順応できるかどうかの個人に対する踏み絵となっているわけだ。ここまで来れば、もはや醜態を通り越して狂気ですらある。

したがって忘年会というものは、他人との調和を図る目的上、自己の一切をかなぐり捨てることと、いかにたわけたことでもふざけたことでも限りなく堪え忍ぶこととを要求するという、社交界の俗悪さを示す見本であると言うことができる。魂だけでなく、時には文字通り命そのものまでも売り渡さなければならないのだから、その有害たるや甚だしいことこの上ない。しかも、このようなくだらない忘年会に他人を無理矢理引き入れようとする愚昧な輩がいるのである。連中は、厚顔にも「親睦」「仕事の一環」などと大噓をつくが、本当のことを言えば、自らの内面の空虚さゆえに低級な人付き合いや乱痴気騒ぎが欠かせないだけの、憐れむべき馬鹿者なのである。

だから、ほんのかすかでも自己を重んじる人は、凡庸低俗な奴らの頭に気兼ねすることなく、あの気の触れた忘年会に対して徹底した侮蔑的態度に出るべきであろう。「朱に交われば赤くなる」との諺通り、邪悪で愚鈍な連中と実務上以外で付き合うのは、自ら堕落しに行くようなものである。