2019年10月28日

言葉は変化すべきではない

言語を保持する姿勢そのものに意義がある


言語の乱れを指摘すると、自らの正当化のために必ず返ってくるのが「言葉は変化するものだ」「伝わればそれでいい」などという言い草である。だが、これは言語の何たるかをまるで理解していない妄言というほかない。

確かに、変化しない言語というものは存在しない。同世代の者のみを相手にお喋りをするだけならばそれでもよかろう。しかし、言語は同世代の人間のためだけに存在するのではない。

考えてみてほしい。碑文や文語調の文章が格調高く、由緒正しいものと看做されるのはなぜだろうか。欧米でギリシャ語やラテン語、そしてそれらを由来とする語彙が、また東アジアで漢語が教養のしるしとされているのはなぜだろうか。イスラム教でクルアーンが今なお専ら原語のアラビア語で唱えられるのはなぜだろうか。

それは、時代を越える普遍性があるからである。もともと伝達しかその役目がなく、発せられたそばからたちまち雲散霧消してしまうだけの存在だった言葉は、文字の発明とそれに続く書記言語の登場により、記録の役割を担うようになった。書かれた言葉は数箇月や数年はおろか、数十年、数百年の、否、数千年の時を越えて、今日生きる我々に直接語りかけてくる。いわば言語は時代の扉を開く鍵であり、まさに人類の記憶の総体を形成しているのである。言語に外見上は全く異なるように見える古今の違いはあれど、それは漸次的であるゆえ、言語学の立場からその連続性を証明することができる。だが、もし言語が変造されれば、その連続性は杜絶してしまうことになる。何人といえども、この人類の遺産に手を加えるいかなる権能も有しはしない。そんなことをすれば、それは極めて不遜な越権行為となろう。だからこそ、我々は規範意識を持って、なるべく古形を留めたかたちを維持すべきなのである。

言語が改変されているのを見るといつも、筆者は映画『猿の惑星』(Planet of the Apes, 1968)にある一場面を否応なく想起させられる。その場面とは、不時着した猿の惑星で、主人公テイラーが仲間の姿を見つけるも、頭部の手術跡を見て彼が既に廃人と化せられているのを悟り、愕然とするというものである。我々は言葉でものを考える。その言葉がひとたび畸形となれば、我々の思考は必然的にその制約を受けざるを得ない。すなわち言語の毀損、改竄は、人間の思考を意図的に捩じ曲げ、延いては人格そのものを破壊するおぞましい悪行なのだ。それも一人の人間だけではなく、人類全体の記憶を損壊するものである。焚書や芸術品の破壊行為(vandalism)が我々をして憤激の情を生ぜしめるのも、ひとえに同様の理由に基づく。かくのごときは悪意と残忍であり、決して倫理的に是認さるべきものではない。

言語を弄ぶのは、せいぜいお遊び程度に留めておくがよい。それを大真面目な場面にも持ち込んで正統に取って代わろうなどと企むのは、正気の沙汰ではない。


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