これは黙って見過ごすわけにはいかない。

この記事は日本経済新聞社のオピニオンページ日経COMEMOへの投稿からの転載です。

言葉に関するネットの情報に、たまたま聞きかじった辞書の定義を絶対視しているきらいがあるのは確かである。辞書によって定義が異なることもあるし、辞書の用例自体が誤っていることもある。要するに、辞書にはそれぞれ編者の価値観が反映されるものであるから、それを「唯一無二の正解」と決めつけるのは、確かに狭量な態度であるといえるだろう。

だが、以下の記述は明らかに一線を越えている。

たとえば「独壇場(どくだんじょう)」はもともと「独擅場(どくせんじょう)」だったそうです。「擅」を「壇」と書き誤ってしまった結果、「壇」が広まったといわれています。ただ、今では独壇場のほうが認知度が高くなっていて、NHK放送文化研究所の解説ページにも「『独壇場』という用語の定着・慣用化が進む中で放送でも今では『独壇場』を使っています。」と書かれています。

しかし、世の中には「独壇場」と聞きつけると、「いやいや、実はそれは誤用で、『どくせんじょう』が正しいんだ」と、マウンティングを仕掛ける人がいます。この人にとっては「唯一の正解=どくせんじょう」なのかもしれません。でも、「言葉の権威」ともいえるNHK放送文化研究所が認めている通り、「どくだんじょう」はもはや不正解ではありません。

そしてこの後に、誤用が多数派の例を挙げながら、リアルな使い方だの、世間の声だの何だの云々、という文言が長々と続く。

はっきりと言っておく。世間やNHKの研究所を権威に持ち出す者に、辞書の定義を押しつける者を「マウンティング」呼ばわりする資格はない。多数に訴える専門家に訴えるかの違いだけで、どちらも虎の威を借る狐であり、同じ穴の狐だからである。

第一、「独壇場」が字形を取り違えた誤用であり、修正されなければならないのは、いまや言うまでもないことだし、全く当然のことである。「擅」の語義を完全に無視して「壇」に置き換えるなど、許されていいはずがない。これを擁護する者たちは、誤用例が増えるならばたとい「発泡」と「発砲」とでさえも同じ意味で、一方を他方と同様に使えるとでも本気で思っているのであろうか。もし本当にそう思っているのならば、小学校の第3学年に席を設けてやる必要がある。こうやって、明瞭な言語の実体がわけのわからぬものに仕立て上げられる。こういう大人たちから教育を受ける青年たちにとってこそ迷惑だ。漢字を廃止した韓国では、国民の国語力が低下したほか、高級語彙群が消失したおかげで、自国語で高等教育を行うこともままならないらしい。遠からず日本もそうなるだろう。

言語の誤りは全て、絶対に些事ではあり得ない。なぜなら、言語は思考を形成するものゆえ、言語の畸形化はそのまま思考の歪みを惹き起こすからだ。記事中では「言葉の役割をコミュニケーションと考える」という主張が述べられているが、これは根本的に間違っている。また、言語は数千年にも及ぶ先人たちの記憶の担い手であるから、誰でもこの遺産を鄭重に扱う義務がある。「言葉は『生き物』」だ、だから変化しても構わない、と開き直るのは、後世の思い上がり以外の何物でもない。

言葉を扱うにあたっては、狭量すぎて辞書に盲従するのでもいけないし、度量が広すぎて世間に追従するのでもいけない。大事なのは、常に自分の目で「正解」を追究しようとする謙虚な姿勢である。