2019年9月29日

ショーペンハウアーの刑罰論

今日の死刑論はほとんど的外れだ


死刑の存廃は、刑罰延いては国家の目的にも関わる極めて重要な問題である。にもかかわらず、安易な人権論や応報論ばかりが取り沙汰され、肝心の刑罰の目的についてはすっかり等閑なおざりにされてしまっている。アルトゥール・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788–1860)がそれを主著『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung, 1819)の本編第62節で既に明快に論じているのだが、法学界でも哲学界でも今日あまり顧みられることがないので、ここで紹介しておきたいと思う。

アルトゥール・ショーペンハウアー
(1788–1860)
不正と正義

ショーペンハウアーの刑罰論を理解するためには、まず彼の哲学の基本を押さえておく必要があるだろう。書名にもある「意志」(Wille)とは、一般的な語義とは異なり、平たく言えば慾望のことである。ショーペンハウアーによれば、意志は各個人の中で盲目的に際限なく拡大する性質を持つ。やがて意志は個人の領域を越え出でて、他人の領域を侵蝕するようになる。そうして他人の意志を否定するまでに至った状態が不正と呼ばれるものであり、その反対の概念が正義ということになる。不正の最も顕著な例が人肉食いであり、次いで殺人がこれに当たる。傷害や暴行も程度が異なるというだけで、これらと同類と看做されるべきである。1

国家及び法の起源

人間には理性というものがあり、己の個体への執着から脱却して、全体の連関を抽象的に認識することができるという点で、他の動物にはない特性を有している。この理性にとって、上述の「万人の万人に対する闘争」はどのように映るのであろうか。

ある個体の意志が別の個体を侵蝕する状態について、侵蝕する側(すなわち不正を行う側)にとっては享楽だが、侵蝕される側(不正を被る側)にとっては耐え難い苦痛となることは言うまでもない。それに留まらず、前者よりも後者の方が比較的大きいこと、また前者の機会は後者の機会に比べれば遥かに稀であることが見て取れよう。

こうして理性による考察の末、万人に広がる苦悩を軽減し、またその苦悩を平等に分配するという目的上、各人が不正による享楽の追求を抛棄し、不正による苦痛を万人から除去することが最善であるとの結論に至る。そして、極大化する意志、有り体に言えばエゴイズムに依拠する偏った立場から脱却し、エゴイズムを組織的な方法で制禦する手段として確立されたものが国家契約、法律と呼ばれるものに外ならない。2

国家は個人の内面に立ち入る権能を一切有しないこと

法は、不正を被らないという受動的な面を考慮するという点で、不正を行わないという能動的な面を考慮する道徳とは区別される。なぜなら、上述したように国家とは、元来エゴイズムそのものに立脚しているゆえ、エゴイズムを根絶するのではなく、適切に管理することのみを目的としているからである。したがって、ある個人に不正を指向する行為が認められるからといって、直ちにそれが禁止されるわけではない。国家はエゴイズムのもたらす有害な結果のみを問題とするのであるから、不正行為が禁止されるのは、人が不正を被るという場合に限られるのである。国家が人々に慈善行為を強制できないのは勿論、ある者が犯罪行為を頭の中で思い描いているだけでは処罰することもできない。3

刑罰の本来の目的

不正を企む個人の意嚮の実現を、国家が外部から阻止する手段として編み出されたのが刑罰である。その意味するところは、「罰は必ず免れ得ないことを知らせて、不正を実行するためのあらゆる可能な動機のかたわらに、つねに不正を中止させる優勢な動機を並べて示すという計画をもっているのにすぎない」4

繰り返すが、人々は不正から免れて庇護を受けるため、自ら不正な行為を諦めて国家を創設し、これを維持するという責務を担ったのであった。だから、国家の成員には一種の契約として義務を履行すること、すなわち一方において刑罰を執行すること、他方において刑罰を受けることが求められる。5

以上の帰結として、刑罰の本来の意図するところは、専ら将来における犯罪への牽制にあるのであって、過去に向けられたものではない。ここから、カントの応報刑論(jus talionis)は否定される。また、刑罰によって罪人に改悛を迫ろうなどというのは、個人の内面には立ち入らないという先述の国家の性質に明らかに相反している。6

国家の重要且つ唯一の任務は公共の秩序の維持にある。仮にある犯罪が発生したとすれば、もはやその意図は失敗に終わったことになる。だが、秩序は早急に恢復されなければならない。そのための方策は一つしかない。それは、前もって予定されていた刑罰を粛々と執行することである。これによって、一旦破られた法はそれでもなお依然として効力を有すること、そして今後も長き将来にわたって国家は不正をなす者の存在を許さない決意であることを告げ知らせるのである。

本質に立脚した刑罰こそ倫理的だ

以上でショーペンハウアーの刑罰論を概説したが、これを踏まえると、賛成反対を問わず、死刑にまつわる今日の議論がほとんど的外れであることがわかるだろう。賛成派は、償いや被害者の感情を前面に出すが、その根柢にある応報感情に報いることに、刑法は初めから想定していない。

欧州や国連、アムネスティー・インターナショナル、弁護士会などの国家や団体からは、死刑廃止を求める上品ぶった決まり文句が倦むこともなく唱えられているが、それらの意味するところは、人権を尊重するだの、残忍な刑罰をやめるだの、社会復帰を促すべきだのといった、白々しい美辞麗句となっている。

まず言っておくが、法律に従って殺人犯を死刑に処するのは、生命権の侵害でも何でもなく、公共の秩序恢復の手段として全く当然のことである。それは、言ってみれば、借金を踏み倒した者の抵当を処分するのが、財産権の侵害ではなく、債権者の権利恢復のために必要な手続きであるのと同じことなのである。これなくして、公共の治安の維持はあり得ない。もし死刑が廃止されたら、我々は不正を目論む個人の動機に対する有効な手段を失うことになろう。なぜなら、自分の行為は取り消すことができないのだという真剣味を人々から失わせ、人々を悪業へと誘い込む甘えを生み出すことになるからである。それはちょうど、一切が何の罰も受けずに終わるだろうと高を括っている腕白坊主の傍若無人な態度に相当するものである。

死刑と同等の厳しいものであり得るというベッカリーア7の受け売りで、死刑の代わりに終身刑を導入すべきと主張する向きもあるが、先述の通り、刑罰が人々の応報感情に応えるものではない以上、無意味である。

また、反対派は死刑が社会復帰の機会を奪うとも言っているが、それこそ個人を侵害する残忍な考え方であると付言しておく。というのも、既に確認したように、刑罰に更生の役割を期待するのは、個人の内面への作用を試みるという点で、極めて越権的であり、倫理に悖るからである。

刑罰の本質に立ち返り、死刑は維持すべきである。筆者がショーペンハウアーの理論を論拠にしてこのように主張するのは、国家の役割とその踏み留まるべき境界とを明示しているゆえ、とくと観察すれば理に適っており、なお且つ穏健で倫理的と言えるからである。この点を差し置いて、復讐のため、あるいは更生のためと言って死刑の是非を論ずる現代社会の不遜な有様は、大いに危懼されて然るべきだ。


1. アルトゥール・ショーペンハウアー(西尾幹二訳)『意志と表象としての世界』III、中央公論新社(中公クラシックス)、2004年、61―63頁。
2. 同上、79―81頁。
3. 同上、86―87頁。
4. 同上、83頁。
5. 同上、90―91頁。
6. 同上、91―92頁。
7. チェーザレ・ベッカリーア(風早八十二、五十嵐二葉訳)『犯罪と刑罰』、岩波書店(岩波文庫)、1938年、95頁。