ロシアによるウクライナ侵攻は8日目を迎えた。即座に制圧されるとみられていたウクライナは未だ抵抗を続けており、予想以上の善戦と評されることもある。とはいえ、第二次世界大戦の始まりとなったナチス・ドイツの電撃戦を振り返ると、ポーランドは1週間、ベルギーは5日、フランスは10日で占領されたから、特筆するほどの戦果をウクライナがあげているわけではないだろう。現状では、アメリカ国防総省の予測どおり、首都キーウの陥落は時間の問題である。

今回のロシアによる攻撃で、我々は秩序を形づくるものが対話や法ではなく、物理的な力であることをまざまざと見せつけられた。よく、戦争に至らないようにするために外交をするのだ、という主張を耳にするが、これは全く順序を履き違えた考えである。そうではなく、まず力があって初めて対話や外交が成り立つ、というのが本当だ。それは一国内の状況を見ても明白である。一国内の秩序が保たれているのは、警察や軍隊などの強制力、すなわち暴力装置を国家が独占しているからに外ならない。その暴力の存在があってこそ、法は機能し、対話の余地が生まれるのである。力なき対話は空疎であり、無意味である。

しかし、この期に及んでも、米国をはじめとする西側諸国は、経済制裁や兵器供与などの間接的な支援に留まっている。とりわけ、アメリカのバイデン政権は、国内輿論を意識して、昨年夏アフガニスタンから軍を撤退させるなど、ここ数年海外情勢に対して消極的な姿勢が目立つ。そこから、アメリカが強気に出ることはないと見透かしているからこそ、プーチンは絶対に矛先を収めない。

実はアメリカのこの及び腰の姿勢は、何もバイデン政権に限ったことではない。歴史をみると、アメリカという国は、 その図体の大きさに比して内向きの国家であることがわかる。王政の支配する古いヨーロッパと訣別し、新天地で新たに国家を作り直すという、そもそもの建国の動機からして、アメリカの歴史は常に外の勢力と距離を置く孤立主義の連続であったといえる。その国是を体現したのがモンロー主義であり、また国際連盟の不加入であった。そして、逆説的ではあるが、世界各地に軍を派遣するというのも、実は内向きの発想から生まれた政策なのである。

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筆者はかねがね、近代の世界秩序が大国どうしの勢力圏の奪い合いであるという見解を示してきた。冷戦、そしてその後の世界秩序も基本的には、資源豊富、交通の要衝といった戦略的に重要な地域をめぐる椅子取りゲームであるといえる。アメリカの今日の地位は、孤立主義の適用範囲を拡大させ、その椅子取りゲームに首尾良く勝ち抜いたことで得られたものである。

したがって、冷戦を形容する常套句の「資本主義陣営対共産主義陣営」のような、イデオロギーを中心に据えた対立軸では本質を見誤る。無論、今回の事態も「自由民主主義対強権主義」の戦いでは決してない。そのような考えは、秩序が所詮は力と力のぶつかり合いであること、そしてデモクラシーの理想が必ずしも勝利するわけではないという、儼然たる現実を覆い隠してしまう。

だがバイデンは、デモクラシーの理想に拘泥して、前任者以上に伝統的な孤立主義に回帰してしまった。その態度は、文字通り対岸の火事を見るかのごとくである。このように、時として旧大陸の出来事を我が事として捉えられなくなってしまうのが、アメリカの昔からの悪い癖である。だが、今回のウクライナの危機は決してアメリカにとって他人事ではない。賢明にも、旧大陸との闘争は旧大陸において決着をつけるしかないと喝破した先人の判断に、バイデンは今こそ習うべきである。今後の世界の運命は、アメリカが自身の悪弊を克服できるかどうかにかかっている。