新聞記者というものは、どうやら法を超える存在であるらしい。

旭川医科大学の建物に無断で立ち入ったとして、北海道新聞社の記者が現行犯逮捕された件で、「リベラル」を自認するメディアの者たちが、逮捕は不当だと息巻いているのである。

通常、大学の敷地は公開空地ではない。どの大学でも関係者以外の立ち入りは基本的に禁止されている。事前に許可を受けていなければ不法侵入である。しかも、記者は当時構内に立ち入らないよう指示されていたというから、取材目的というのは言い訳にはならない。不利益を受けて、「報道の自由」への抑圧だと言いたいのだろうが、それ以前に自身が他の私人の権利を侵害していることに気づくべきである。

権力を縛るという点が自らの理想と合致しているゆえ、そこだけ切り取って憲法を愛撫するような倒錯した概念を彼らは抱いているので、敢えてここで指摘しておくのだが、法というものは、エゴイズムを根絶する代わりに管理するという目的上、私人間の権利を調整するというのが本来の眼目である。公権力はそれを実現するための強制機能だ。

その強制機能たる警察や検察も、捜査にあたってはあらかじめ定められた手順に沿うことを義務づけられている。そのため、令状なしの捜索による押収物や強要された自白は証拠として認められない。公権力ですらそうなのだ。いわんや、マスコミの「取材自体は公益性のある行為」だからこそ、慎重に事を進めなければならないではないか。もし彼らが、「公益性」は手続き──ここでいえば相手の諒承を得ることだ──を飛び越す特権だという生意気なことを考えているとしたら、「最も厳密な意味での野蛮」11. オルテガ・イ・ガセット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1995年、101頁。と言わなければなるまい。そういう傍若無人な振る舞いは、日々著名人の私生活を追いかけ回しているゴシップ誌と何が違うというのだろう。そうやって「わきまえずに」こしらえあげられた記事に、どうして信頼を置くことなどできようぞ。

いつもは国家による私権制限を批判しながら、自分たちが同じ内容で追及されると「報道の自由」を盾に開き直る──それが「クオリティー・ペーパー」を標榜する和製メディアの流儀らしい。控えめに言ってダブル・スタンダードであり、横暴そのものである。