2021年6月27日

「リベラル」改め「例外主義者」の生態

寡頭支配の実現が彼らの狙いだ

キュレーター不在のまま設置されたあいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」は、開催3日目で中止に追い込まれた(2019年)。
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この記事 「リベラル」改め「例外主義者」の生態
怠け者の平和主義
安全対策は青天井

自称「リベラル」に関する話題には事欠かない日々だが、彼らの言動に接しているうちに、非主流派による現状変更の試みというのがその実態ではないかという疑念が最近頭を擡げてきた。

例えば、彼らはよく立憲主義を前面に押し出す。だがそれは、国家権力の制限という部分が彼らの反体制的な思想とたまたま合致しているからで、心の底から立憲主義を信奉しているわけではない。立憲主義というのは、人民が自然権に基づいて憲法により国家に制約を課すると同時に、人民はその国家の統治に服する義務を負うもののはずだ1。ところが、先の新聞記者の不法侵入の例でも明らかになったように、公権力には「なんとかの自由」という拒否権を発動し、他の私人の権利を蹂躙するというのが彼らの常套手段である。

同様の事例は表現の世界にも見られる。平時に世人を挑発している連中が憎悪表現の規制をことさらに主張するのは、誠に笑止の沙汰と言うほかない。というのも、これは自身に対する批判を封殺するための口実であり、自分たちは表現の自由を理由に言いたい放題だからだ。この間も「#この指とめよう」などという茶番劇を演じていたが、その後過去の暴言を掘り返されて謝罪を強いられるという体たらくである。

過去の私の不適切なツイートについてお詫び

私が過去に、SNSで傷つけてしまった方や、そのご家族、関係者様、支援企業・運営関係者の皆さま、全ての方に心からお詫びを申し上げます。本当に申し訳ございませんでした。今回の件で、過去のツイートが再拡散してしまったことにより、さらに傷を深めてしまった当事者の方・ご関係者様につきましては、何とお詫びを申し上げていいか分かりません。この度は多大なる心傷とご迷惑をおかけしてしまい、心の底から申し訳なく、幾重にもお詫び申し上げます。

自分の未熟さを後悔し、反省しております。皆様に頂いた多くのご批判を真摯に受け止める所存です。投稿を削除し、アカウントに鍵をかけ、謝罪が遅れた事も誠に申し訳ありませんでした。

今後の活動につきましては、猛省を深め、「SNSでの誹謗中傷を減らす」という理念のもと、方向性の見直しを含めて、関係各所との熟議を重ねて参ります。今回の事案に関しまして、重ねてお詫び申し上げます。

2021年05月29日
小竹海広

──団体の代表者、小竹海広(@0dake)が2021年5月30日に画像で「Twitter」に掲載した謝罪文

現在日本で「リベラル」と称揚されている連中は、見当違いの座を占めているものだ。そもそもリベラル、自由主義というのは、理性的な個人という概念に価値を見出した近代社会の理想であり、自由の行使にはそれに応じた責任を自覚することが求められる。ところが、先に挙げた者たちは、それぞれ出自は違えど、責任を果たさずに甘い汁を吸うというただ一点において完全に一致している。そして、己の卑しい慾望をかなえるために、厚顔無恥な徒党を組んでいるのだ。このような輩は、本当の意味での自由主義とは対極にあるのだから、まかり間違っても「リベラル」などという呼称を与えるべきではない。むしろ、平等を根柢から否定する態度や愚かな自惚れに着目して、「例外主義者」とでも呼ぶべきであろう。

彼らの生態を知りたいという人には、ジョージ・オーウェルの『動物農場』(Animal Farm, 1945)を一読されることをお勧めする。農場の動物たちが蹶起けっきして人間を追い出すも、その後豚たちによって専制政治が敷かれてしまうという話で、出版当時のスターリン主義を諷刺した寓話である。作中、人間が追放された後の農場には「全ての動物は平等である(All animals are equal)」という標語が掲げられる。だが豚たちの専制が尖鋭化したのち、物語の終盤で先の標語は「全ての動物は平等である。 ただし一部の動物はもっと平等である(All animals are equal, but some animals are more equal than others) 」(強調筆者)という文言に変わる。

これほど例外主義者に相応しい標語はないだろう。なぜなら、あの豚どもは、現行の統治に服することを嫌い、自身を法の埒外に置いているからだ。さすれば、導き出される結論として、彼らの狙いは自らが優位に立って擅断できる社会の実現ということになる。こうしてみれば、連中があれほど高慢で罵詈雑言ばりぞうごんを厭わないのにも納得がいくだろう。なぜなら、彼らにとって、自身はまさしく例外的な存在であり、己を縛る者や己に反対する者は全て、自身に従属すべき劣位の存在だからだ。なるほど普段彼らはいかにも弱者に寄り添い、少数派の権利を擁護しているかのように見える。だがそれは、既存の体制に対する不満分子を取り込むための術策に過ぎない。慈悲深く慈愛あまねき存在という彼らの姿は、単にうわべだけのことなのだ。弱者たちの支持を取り付けるや否や、豚どもは正当性を獲得したとばかりにますます増長し、偽善的な動機も相俟って、天下御免でやりたい放題をやらかしているのである。

残忍さこそが彼らの本質である。弱者の味方だったはずの共産主義者の変節ぶりを思い出せ。例外主義者たちの寡頭支配を絶対に許してはならぬ。心せよ、彼らは必ず抑圧に動く。


1. 日本国憲法第99条の「憲法尊重擁護の義務」は、公務員などを対象に特別に言及したものであって、国民の遵守義務は当然のこととして改めて明文化される必要がなかったというだけのことである。

2021年8月16日追記
小竹の謝罪文の投稿は「Twitter」から削除されたため、書き起こしたものに差し替えた。