「無知は罪」とはこのことである。

来る衆院選に向けて、自民・公明両党に対抗するため、旧社会党の残党を中心に野党は各選挙区で互いに競合しないよう候補者を一本化した。ところが、あろうことか主義も主張もまるで異なる日本共産党に魂を売り渡しているのを見るに、その無節操と危機意識の欠如には空恐ろしさを感ぜずにはいられない。

とりわけ、立憲民主党代表の枝野幸男は過去に、革マル派との繫がりがあるとされるJR総連から献金を受け取ったために、革マル派のシンパとの流言蜚語を撒き散らされたことをもう忘れたのだろうか。革マル派と敵対する中核派の拠点である東北大学の出身でいながら、JR総連から献金をもらう意味もわからないほどなのだから、左翼に対する認識があまりにも甘すぎると言わざるを得ない。

かつての社会党は社会主義協会という理論集団を抱え、良くも悪くも筋金入りのマルクス主義者の政党だった。しかし、今は立憲民主党も社民党もなまじノンポリの根なし草ばかりなので、共産主義者の単なる走狗に成り下がっている。

軽率なのは一般大衆も同様である。

日共の宣伝でよく目に付くのが、社会的弱者に送られる秋波である。最近では、 淑女崇拝者フェミニストや性的少数者の当事者たちを駆り出して、彼らの支持を取り付けることに余念がない。


こういった宣伝を真に受けて、日共こそマイノリティーの味方だと信じて疑わない者たちがいるようだが、世間知らずにも程がある。日共が自ら巷に流すスローガンに本気でないことは、同党の成立過程とイデオロギーを見れば明白である。

関連記事
いまだくすぶる亡霊──『真説日本左翼史──戦後左派の源流1945―1960』

日共の理論的支柱は、戦前の日本資本主義論争における講座派を淵源とする。その要点は、日本の体制を唯物史観における発展の全5段階のうちの第3段階である封建社会と捉え、社会主義の実現にはまずブルジョワ民主主義革命が必要だとする「二段階革命論」である。

つまり、日共にとっての究極の目標は、天皇制の廃止を含めて、現行の政府を顚覆することであり、目下唱えている護憲、核廃絶、自衛隊廃止、日米安保破棄、少数派擁護などの題目は、そのための準備運動でしかない。同党の政策から革命政党としての性格が見えないのは、現状が革命の一段階目の途上ということで主張を抑えているからに過ぎない。

日共自身は、暴力革命を企図していないなどと反撥しているが、言い訳にもならない噴飯物の強辯である。なぜといって、『共産党宣言』にもあるとおり、そもそも共産主義とは必然的に暴力を伴うものであり、暴力革命のない共産主義などあり得ないからだ。

共産主義者は、自分たちの目的が、これまでの一切の社会秩序の暴力的顚覆(den gewaltsamen Umsturz)によってしか達成され得ないことを、公然と宣言する。

──カール・マルクス、フリードリッヒ・エンゲルス『共産党宣言』
(圏点筆者)

だが、今となっては過去の殺人や破壊活動の記憶も限りなく薄れているため、護憲・平和・大衆政党という当面の政策に安易に同調する者たちが後を絶たない。

しかし何が惨めだといっても、共産党に煽動された者の運命に勝るものがあろうか。日共党員でさえ、1950年代前半の武装闘争路線に従っていたところ、党の突然の路線転換によって梯子を外されたのである。かつて、第二次大戦後の中国大陸において、国民党の腐敗に耐えかねた人々は中国共産党に未来を托した。その結果どうなったのかは、今ご覧のとおりだ。

「地獄への道は善意で舗装されている」と言う。皮肉なことに、マルクスの『資本論』11. カール・マルクス(フリードリッヒ・エンゲルス編、向坂逸郎訳)『資本論(二)』(岩波文庫)、岩波書店、1969年、31頁。にもある警句である。気づいた時に後悔しても遅いのである。